※現パロ

スーパーサマーライン



 扇風機から流れてくる微妙にぬるい風に当たりながら、駄菓子屋のおばちゃんがくれたジュースを飲む。氷が入ってよく冷えたそれは自然の色なのかと疑わしいほど毒々しい赤色をしていて、甘酸っぱい味は飲み覚えがあるような気もするけれどフルーツなのかも分からなかった。
 世間は昨日に終業式を終え、夏休みになった小学生たちが清々しい表情でお店の外を走っていく。ぼうっとしているだけで頭の中をじわじわ浸食してくるセミの鳴き声に少しイライラしながらも、飲み干したジュースが体温を下げていくのを確かに感じた。

桐子ちゃん、その荷物全部一人で持っていくの?」
「うーん、残念ながら……」
「……大変だねえ」
「ほんとにね」

 世の中の小、中学生たちが夏休みに浮かれる今日、スケジュール上は確かにある筈の夏休みからは程遠くレポートに追われている大学生のわたしは、なぜか弟が学校に置いて行った大量の荷物を抱えて一人で家まで歩いていた。暑いわ重いわで立ち止まり、道端でいろんなものを諦めかけていたとき、駄菓子屋のおばちゃんに声をかけられて今に至る。
 朝、今日は図書館に行って、最後まで残しておいた重めのレポートを書こうかなあなんてファンデーションを頬にたたいていたら、誰もいないリビングの電話が鳴った。「水原さんのお宅ですか?」と言う知らない女の人の声は、続けてわたしの弟の名前を出す。電話の相手は、小学二年生の弟の担任であった。
 先生曰く、うちの弟は昨日が夏休み前最後の登校だったにも関わらず、持ち帰らなければならない荷物を全部置いて行ったのだそうだ。中には、あさがおの鉢だとかお茶が半分入った水筒だとかの緊急を要するものまで。できることなら今日中に取りに来てもらいたいと言う先生に、わたしは家の中を見渡した。両親は仕事に行った。弟はわたしが起きたころ、「今日は市民プールに行く」と言って意気揚々と出かけていった。しょうがないので「午後から取りに行きます」と答えたわたしは、自転車で小学校に向かったものの、あまりの荷物の多さに唖然として徒歩で帰宅している、というわけである。よく考えれば分かる話で、そもそもあさがおの鉢など自転車に乗るわけがなかったのだ。
 二杯目のジュースを飲み干して、おばちゃんが三杯目を勧めてくるのを断って重たい腰を上げる。心地よいが、そろそろ立ち上がらないとわたしは一生ここから動かない自信があった。「おばちゃん助かったよ、ありがとう」とお礼を言うわたしに、おばちゃんがガッツポーズをする。と、その時。

「あはは、ほんとに小学生になってる」
「……さいちくん?」
「……なんか懐かしいねその呼び方」

 荷物を一個ずつ肩にかけて、最後にあさがおの鉢を持ち上げる途中で、後ろから聞こえてきた懐かしい声に思わず動きを止める。振り向かなくても声でおおよそ誰だかわかっていたけれど、一応振り向いてみたら、そこには前髪を後ろに流してふわふわさせながら照れ臭そうに笑う佐一くんがいた。

「え、え、ほん、……本物?」
「じゃなかったらどうすんの」
「うわぁ~!ものすごく久しぶり、ど、どうして!?」
「ばあちゃんち遊びに来た。とうこちゃんは小学校終わったの?」
「……違うんだって!これは」
「知ってる知ってる。弟のやつなんでしょ?」
「……そう!」

 しゃがんで鉢を眺めていた佐一くんが、まだアサガオ育ててるんだね、俺たちの頃と一緒だ、と葉っぱをちょんちょんつつきながら言う。最後に会ったのは確か、高校に入って最初の夏休みが始まってすぐ、ちょうど今日みたいな暑い日だった。小学校からの幼馴染であるさいちくんとは、高校に入ってすぐお父さんのお仕事の関係で引っ越してしまったから、それ以来会っていない。
 これはよくある話なのかもしれないけれど、わたしはずっとさいちくんのことが好きだった。幼馴染であるが故に距離感がわからず、特に告白したりだとか付き合ったりだとかすることはなかったけれど、田舎特有の狭いコミュニティで生きていたから、なんとなく『佐一と言ったら桐子桐子と言ったら佐一』みたいなのが浸透していたせいで、ある程度大きくなってからはほとんど佐一くんと一緒にいた。
 今思えば、きちんと関係を形にしておくべきだったのだと思う。離れてから気付いたこと。学校が同じじゃなければ、住んでいる場所が同じじゃなければ、わたしたちを繋ぎ留めておくものなんてなにもなかったのだ。付き合っていないから会いに行く義務も、会いに来てくれる義務もない。高校生になって、おとことおんなのかたちに敏感になってからはなおさら。ただの仲良しの男友達に、用がないのにメールするのも、電話するのも、いつのまにか躊躇うようになっていた。

 ここまで来るとさいちくん、と呼ぶのにも少し迷ってしまうけれど、最初になにも考えずそう呼んでしまったのでそれについては何も考えないことにした。さいちくんは、わたしのことを一体どう思っているんだろう。なんとも思っていないかな。ひょっとしたら、ずっと前からなんとも思ってなかった、なんてこともあるかもしれないと思い、一人で勝手に悲しくなった。
 いつまでおばちゃんちにいるのだとか、背が伸びたねだとか、筋肉すごいねだとか、いろんなことを言いたいのになにから言うべきかわからず「ええー」とか「ううー」とか変なことばにもならない呻きを続けるわたしに、少し呆れた顔をしながらさいちくんが言う。

「一番重いのどれ?俺も運ぶ」
「え!?たぶんこれとこれ……だけど、悪いよ!忙しいでしょ」
「全然。つか手伝いに来たんだけど」

 よいしょ、と軽々荷物を持ち上げたさいちくんが「家の場所変わってないよね?」と言いながらさっさとお店から出ていってしまうので、わたしはおばちゃんにさよならともう一度お礼を言って急いでその後を追いかけた。迷わず歩いていくさいちくんの背中が想像以上に大きくてどきどきする。身体は大きくなったけれど、あのころみたいに普通に話しているのが、なんか変な感じだ。わたしだけ緊張しているみたいで、恥ずかしい。

「なんか町がちっちゃく見える。全然変わってないけど」
「……さいちくんが大きくなりすぎなんだよ」
桐子ちゃんはちっちゃくなった?小学生だもんね、まだ」
「違うってば。背はちょっと伸びたよ、さすがに」
「うん。さっき駄菓子屋入って桐子ちゃんのこと見つけたとき、俺ちょっとびっくりした」
「……なんで?」
桐子ちゃんが大人になってたから」
「……さいちくんだって、すごい、」
「すごい?」
「……すごいムキムキ」
「ええー、なにそれぇ」

 かっこよくなってて、驚いたんだよ。
 ぎりぎりで飲み込んだ言葉と、赤くなる顔をごまかすように「ていうかなんでわたしが荷物運んでたの知ってたの」と話を続ける。

「おばちゃんから連絡があった」
「いつの間に!」
「ほんとさっきだよ。俺電話あってすぐ家出たから」
「ええ、ごめんね。知らなかった」
「いいのいいの。桐子ちゃんに会いに行こうと思ってたし、まあ、ちょうどよかったよ」
「……そっか、ありがとう」
「うん。なんか懐かしいよな、こういうのも」
「こういうの?」
桐子ちゃんになんかあったら、すぐ俺が呼ばれんの。逆もあるけど」

 つう、と顔の横を流れる汗を拭いながら、さいちくんが立ち止まって振り向く。まっすぐわたしのことを見つめると、「ずっと離れてたヤツが言える事じゃないけど」と笑うさいちくんが眩しくて、思わず目を細める。

「俺以外のやつ呼ぶんじゃねーぞ」
「……」
「……なんて、ちょっとかっこつけてみたかった」
「……」
「なんか言ってよ、恥ずかしいじゃん」

 じわじわと背中を流れる汗が嫌だ。セミがうるさい。
 好きな人が帰ってきた。たぶん今までの人生で一番特別な、夏が始まる。