※現パロ

海流の中の島々



 ひどくつまらないカラオケ大会で何回目か分からないジントニックの入ったグラスを空にした頃、ドアが開いた。
 はじめは、お手洗いにでも行った人が戻ってきたのかと思ったけれど、歌っている人も無視して部屋にいた半数が彼に向かって大きな反応を示したので、角にいたわたしも反応せざるを終えなかった。
 お疲れ、とか、おせえよ、とか、すぎもとくん待ってたよぉ、と言う声に出迎えられたガタイが良くキャップを被ったすこしいかつい男性は、顔の全面に広がる大きな傷痕すらもまたガラが悪そうでいかついのに、瞳だけが柴犬のようにキラキラしていて、その琥珀色はカラスに狙われそうだな、とぼんやり考えたりした。
 こっちこっち、といろいろなひとに引き止められて、どこに座るか逡巡している彼とぱちり目が合った。
 自己紹介をするか、次になにを飲むか他の人たちに聞くか、逡巡して、二つが交じり合う。

「なに飲まれます?」
「あっ、じゃあ俺ビールで」
「はい」
「店員か!」

 来たばかりの彼がそう言うと、ぎゃははは、とみんなが笑って、「わたしカシオレ!」「ウーロンハイ!」と声が上がっていく。ここは競りか、なんて思いながら、学生時代に行っていたバイトを思い出して注文を記憶した通り、電話越しの本物の店員さんに伝える。
 そういえば、杉元、と囲まれている彼は何度かこの飲み会でも見かけたことがあるような気がするけれど、わたしがいつも帰るのが早く、彼はいつも遅くやってくる、そんなイメージがあるからきちんと話したことはないかもしれない。わたしは彼を知っているけれど、彼はわたしを知らない、なんか学園物のモノローグでありそうだ。
 店員さんは深夜の割に素早く、いや、深夜だからお客さんが少ないのか思ったよりはやく器用にたくさんのグラスをお盆に乗せて運んでくる。綺麗な黄金比率で注がれたビールを眺めながら、あれ、すっごい難しいんだよなぁ、なんてまた考える。
 「桐子ちゃんも歌えば?」と話しかけてくれた男の子に困ったような微笑みを返して、ジントニックを注文し忘れたことに気付いた。サイアクだ、でももう新しいカラオケの流れが出来ている、わたしだけわざわざ注文するのもなんだか嫌な感じだ。そんなことを隣の心優しい男の子に言う訳にもいかず、隙間を埋めるようにカラオケの合間に二人ぽつりぽつりと会話をした。
 誰に連れられて来たの?とか、桐子ちゃん良く見かけるけど話すのはじめてだよね、なんて優しく話を振ってくれるので、空だったジントニックのこともすっかり忘れることが出来て、やはり酒より人間が隣にいた方が落ち着くのかもしれないなんて思った。
 ふ、と何かのタイミングで隣にいた彼が立ち上がってどこかへ行って、皆と歌っていた杉元くんがするり、とその隙間に入り込んできた。するり、なんてきれいな感じでもなかったけれど、あまりにもタイミングがするり、という感じで。

「さっきはありがとな」
「……あぁ、ビール?」
「で、自分の忘れたの?」
「ばれてましたか?」
「ばれてる、最初から見てたから」

 カラスに取られそう、と思ったのは間違いではない、きらりとした瞳は潤んでいる。「飲む?って言いたいけどビールだしなあ」、いつの間にしっかり移動したのかグラスまでもが彼の目の前にあった。四分の一ほど残っているビールがやけにおいしそうに見えた。さっきから、会話の代用品として飲んでいたものもなくなり、そのくせ会話があっても喉は乾くのだから。

「ドーゾ」
「……いや、」
桐子ちゃん、喉乾いてるでしょ、ほら」

 彼はわたしの手を包み込むようにしてグラスを持たせる。そのまま受け取って、黄金の液体を喉に滑り込ませると、体中に水分が染み込んでいくような錯覚を覚えた。これがアルコールじゃなかったらもっと身体に良かったんだろうけれど。

「で、何頼みたかったの」
「ジントニック、を」
「渋いね」

 今度は彼が立ち上がって、ちらりとテーブルに視線をやる。店員のように行うのではなくて、リーダーのように注文を行うという感じで、人間性が現れていた。わたしの隣に座り直した彼は「これでやっと飲めるな」とにっこりとした笑顔でこちらを見る。

「ほんと、やっと」
「そんな?まぁ、俺もめっちゃ喉乾くし分かるけどさぁ」
「ぶっちゃけこういう集まり、あんまり行かないから緊張しちゃって」
「あんま喋らないし?」
「意外と控えめな性格なんで」

 そう返すと、彼は目をまん丸くしてから、声を上げて笑い出した。

「笑い過ぎ」
「あーごめんごめん」
「いや、いいですけど」
「でもまた来てよ。俺いるとき、っていうか、俺と同じタイミングとかでいいから」

 どういう意味ですか、ジントニックが彼の手から渡されて、そう問いかけるタイミングを失ってしまった。隣の席できちんと自分の分も飲み物を補充している彼に習って喉を潤す。だって連絡さえ知らないはずなのに、そう思っても、今日なのか別の日なのか分からないけれど、彼から連絡が来る未来を、そして、次の飲み会で彼の隣でちびりちびりとグラスに口をつける自分を見た気がした。

「ちゃんと俺の隣に、いてね」
「……?」
「いや?」
「わかりました」
「敬語もナシで」
「善処します」

 「いいね、それ」、唇に指先を当てて笑う彼にわたしは微笑みを返す。唇に当てられた指先は無骨な男の人のもので、爪もきちんと切られていて、すこしどきりとしてしまった。
 流行のポップチューンと盛り上がったいくつかの歌声が部屋では止めどなく流れているけれど、先ほどから声をかけてくる彼の距離が少し縮まったのは、部屋が煩いからじゃないことも分かっていた。