うみにいきたい。
日曜日の早朝5時に同居人がそうぼやいたので白んだ空の眩しい海辺を散歩するはめになっている、可哀想な彼氏の俺。けれど拾った使用済みの手持花火を振り回しながらふらふらと酔っ払いみたいな風情で砂浜に足を取られながら俺の隣を歩く桐子が可愛らしいからこれもまた良しとしよう。こんなことだから俺はいつも明日子さんに「お前は桐子を甘やかしすぎだ」と怒られる。けれど俺がどんなに桐子を大事にしているか明日子さんは知らない。桐子の尖った唇を見たりふてた声を聞いたりするとどんなわがままだって叶えてあげたくなってしまう。どうしようもなく優しくして、どうしようもなく甘やかしたくなってしまう。なにもわかっていない明日子さんは「なんだそれ、恋か」と惚けた声で度々俺に問う。いやだなあ明日子さんは、どこからどう判断しても愛じゃないか。
以前よりも少し伸びた髪を潮風に撫で付けられて、桐子は煩わしそうに絡んだそれを掻きあげる。白いワンピースから伸びる透き通った肌が恋しくて情欲が掻き立てらたけれども俺はなんとか沈黙を守った。桐子はよろよろと覚束ない足取りで進んでゆくから目を離せない。こんなことだから俺はいつも白石に「お前は桐子ちゃんにちょっと過保護すぎやしねえか」と呆れられる。けれど俺がどんなに無防備な桐子を大事にしているか白石は知らない。幼少の頃はそれこそ俺が手を引いてあげないと桐子は真直ぐ歩くことすらできなかった。高校三年生ともなればそんなことは有り得ないだろうけれど、それでも目を離すことなんて出来やしない。白石は本当になにも分かっていやしない、べつに桐子の足取りだけが不安要素ではないのだ。
「佐一なんか、きらい」
手持花火をふらふらと振り回しながら桐子が言った。思い当たることのない誹りを受けた俺は「そっか」とだけ返事をしておいた。「佐一なんかきらい」と桐子はことあるごとにそう口にする。期末試験で俺の点数が桐子のそれより高かったときも、桐子の誕生日と部活の練習試合が重なったときも、バレンタインに俺の靴箱に入っていた差出人不明のチョコレートを目にしたときも、桐子は唇を尖らせてそう零していた。「佐一なんかきらい」は、言葉を多く知らない桐子の不平不満を述べる唯一の術だ。
白んだ空を横目に浜辺を歩きながら桐子に嫌われた理由を考えるけれども、桐子が俺を嫌いだと言い出す理由なんて大概俺の関与しない理不尽なものだからいくら考えたって答えは出ない。俺は嫌われた理由の模索を諦めて、波打ち際に目をやった。
「3組のマリちゃんって、すごくかわいいよね」
持っていた手持花火を俺の右肩に投げつけた桐子がふてた声を出した。
「マリちゃん?」
聞き返しただけだと言うのに桐子は途端にますます不機嫌になってしまって、ぴきりと眉間に皺を寄せて「佐一なんかきらい」と大きな声を出した。いつにも増して理不尽な幼馴染に閉口する。早朝の澄み渡った空気の中で、桐子は不機嫌をべたりと貼り付けた顔で俺を睨む。3組のマリちゃんってすごくかわいいよね。桐子の言葉を胸中で反芻して身に覚えもなければ縁もない名前と格闘するけれど、桐子はふいと顔を背けて早足で歩き出してしまった。その数歩後を桐子の足跡を辿るようにして歩く俺は、なんとかして桐子の機嫌を正す術はないものかときらきらと輝く砂浜に目を凝らす。
「なぁ、桐子、その子がどうかしたのか」
尋ねてみても桐子は俺の声なんか聞こえていないかのような素振りで絡んだ髪を煩わしそうに掻き揚げる。
「その子のことは知らないけどさ、きっと桐子のほうがかわいいよ」
気休めにでもなればと口にした本心も桐子は一向に取り合わない。どうしたものかと頭を垂れると見たことのない白いミュールが目に入り、頼りない足首に巻きついた細いリボンが可憐に揺れていた。そして俺は状況も弁えずに、目の前を歩く女の子をどうしようもなく愛しく思った。白を誇るワンピースも新品のミュールも俺のためだと、期待と打算とが入り混じった劣情と理解していながら、それと全く矛盾しない秩序で以て俺は確信を抱いている。
不謹慎にもだらしなくにやにやしていると桐子が突然その場にしゃがみ込んでぎょっとした。
「えっ、桐子、どうかした?」
声に滲んだ狼狽を隠すことができずに桐子へと駆け寄り目線を合わせようと膝を折れば、桐子は俯いたままもごもごとその愛らしい唇を動かした。前髪に隠れた表情とわだかまりに阻まれた声ではの意図を正しく測ることができずに俺は情けなくが顔を上げるのを待つより他ない。波打ち際でしゃがみ込んだものだから、細波が今にも新しいミュールを襲おうとしているにも関わらず桐子は構わない様子で俯いている。
「桐子」
静かに名前を呼んだなら、波音に掻き消されんばかりの声量で桐子が言った。おねがい、まだ。
「まだ、わたしだけの佐一でいて」
告白に酷似した、それでいて告白の意を全く伴わない科白を震えた声で言ってのける桐子から俺は弱って微笑むしかない。いいよ、桐子がそれを望むならいつまでだって桐子だけの俺でいてあげる。歯の浮くような科白だって桐子が相手ならちっとも苦にはならないけれど、俺との想いの比を示す天秤が全く不均衡な今そんなことを言うのは口惜しい。俺はだらしなく緩んでしまいそうな頬を押さえ、「うん」とだけ答えてうずくまる桐子に背を向けた。
「足痛いんだろ、海にそんなもん履いてくるからだよ」
かわいいけどね、と一言添えれば、漸く顔を上げた桐子は目尻に微かに涙を滲ませて「やっと褒めた」と不満を露わにした声で俺を責め、俺の背中に飛びついた。
「ばか佐一」
「はいはい」
「アイス食べたい」
「はいはい」
背中に圧し掛かっている桐子を支えて立ち上がる。細波が足元で弾けて、足首だけがひやりと冷たくなった気がした。
なに食べようか、抹茶とか、バニラとか。抹茶きらい。そうだったね、じゃあ、バニラにしよう。イチゴがいい。桐子を負ぶって砂浜を歩くのは何年ぶりだろうと物思いに耽りながらの会話にはあまり身が入らない。びっくりするくらいに軽い身体だとか、首に絡みつく白く繊い腕だとか、背中に感じる体温だとか、首筋を擽る細い髪や吐息すべてに時間の流れを諭されている気分になって、なんだか切なさに胸がしなった。
「佐一、すき」
「知ってるよ」
佐一は。知ってるだろ。だめ、ちゃんと言って。あ、ほら、桐子、ウニ。こんなとこにウニなんているわけない、それより、ウニなんてどうでもいい。
なんでもかんでもその言葉で括る<桐子の「すき」を真に受けてはいけない。それは言葉を多く知らない彼女の満悦を述べる唯一の術だ。試験のヤマ張りを手伝ったときも、突然の雨に相合傘をして帰ったときも、文化祭の買出しで多くの荷物に喘いでいた桐子に手を差し伸べたときも、桐子は純粋無垢なひとみで俺がすきだと言い俺の矮小な胸を悩ませた。その言葉が俺にとってどれだけ破壊力を有しているかも知らずに。鈍感にもほどがある。
「佐一、言って、すきって言ってったら」
襟首で桐子が喚く。曖昧な愛情表現を俺にも強要するところなんてほんとうに性質が悪い。その言葉の方向性は相違しているのに全く惨憺だ。けれどこの状態で長々と苦情を漏らされても敵わないと俺はなるべくそれらしい声で以て「うん、俺もすきだよ」と返す。すると途端に静かになった桐子がこてんと俺の肩に頭部を預けるようにして項垂れた。俺の右肩からは明らかに不満が滲み出ていて、どうしろって言うんだ、なんて思いながら次の幼馴染のセリフを考えた。佐一なんか、きらい。
「佐一なんかきらい」
予想通りに桐子が零すものだから俺は「そっか」とだけ返して歩を進める。わがままな幼馴染に呆れ果てていると「水原がわがままなのはお前が甘やかしすぎたせいだろうが」と頭の隅で尾形が嘲笑った。そうかもしれない。けれど、桐子が俺だけに向ける砂糖菓子みたいに甘い声も、仕種も、表情も尾形は知らないだろう。そしてそんなもの、尾形は一生知らなくて良いことだ。
ふいに俺の首に巻きつく桐子の腕の力が強まって、ほんの少しだけ上擦った声が出た。
「なぁにぃ、桐子、ちょっと苦しいって」
意見するもご無体な幼馴染は取り合わない。ただ、不平不満に満ちた声で言うのみだ。
「わたしのすきは、そういうすきじゃない」
思わず停止する両足は絶対に俺の所為じゃない。俺の背中にぴっとりと密着して不平を漏らす幼馴染は、どんなに可憐な顔をしてそんなことを言ったのだろう。太陽に反射して光る細波が足元で弾けて、かっと燃え上がった俺の体温を沈静させる。間に合わせ程度にと返した「うん」はどうしようもなく動揺の色を滲ませていて、恰好悪いことこの上なかった。鈍感だ鈍感だと、桐子に対してもどかしさばかりを感じていた俺だけれど、桐子にしてみれば俺こそ鈍感極まりない男だったことだろう。桐子が度々露わにした本心を酷な笑顔で流していたのは俺だった。
「ウニだ」
照れ隠しなのかなんなのか桐子が短く口にするものだから「こんなところにウニなんているわけないよ」と俺は返した。そうして桐子を支え直して、二人分の足跡のみが残っている砂浜を歩いた。背中越しだというのに、桐子の体温だとか異常に脈打つ早鐘のような鼓動だとかがありありと俺まで伝わる。だから、俺の体温だとか異常に脈打つ早鐘のような鼓動だとか、そういう俺の情けない動揺のすべてもまた同じように桐子まで筒抜けに届いてしまっていることだろう。想いを伝えられるのは言葉とか文字とかそういう手段に限らない。世間一般に言うまことしやかな空論を思い出し、俺は殊更にゆっくりと歩を進めた。その話がほんとうならばきっと伝わるはずだ。俺は沈黙したまま沈黙する桐子を背負い、朝の海辺にて家路につく。非科学的な論理を真に受けて、鈍感でわがままな幼馴染に向け胸に想うはただひとつ。
きみが好きだ。好きだ好きだ好きだ。