「ゲッ」
わたしを見た瞬間に顔を引き攣らせてそう呻いた由竹が、少しだけ後ずさった。なによ、化け物でも見たみたいに、失礼な。そう思う気持ちと、やりよったわこいつ、という諦念と失望が混ざり合った気持ちがわたしの中で渦を巻く。何も知らない女が由竹の腕に絡みついて、「どうしたのぉ?」と能天気な声を出した。
「というわけで、別れるから」
「いやいや、一旦落ち着こう?」
「わたし、落ち着いてるよ?」
目の前で慌てる杉元くんに話したことを、もう一度最初から説明しよう。
状況はいたってシンプルだった。新しいバイトを始めたわたしと、そのバイト先を知らなかった由竹。本当にたまたま、運悪くわたしの新しいバイト先を、浮気相手と訪れてしまった由竹。しかも、接客で出迎えたわたしと鉢合わせ。呆然とする由竹と、怒りで持っていたお盆を叩き割りそうになるわたしとの間で、「ねー店員さん、早く案内してよぉ」と由竹にしな垂れかかりながら偉そうに言った女の!乳のでかかったこと!今思い出しても忌々しい!ブラジャーちゃんとつけてる?と心配になりそうなほど、ざっくり開いた襟ぐりから零れ落ちそうな柔らかなおっぱいを由竹の腕に押し付けて、「わたしの男ですがなにか?」と言いたげな女の表情の、唇のテカテカした具合とか。むちむちとした足を見た時は、「アンタデブ嫌いじゃなかったっけ?」と思ったが、もう一度そのけしからん乳を見て思い直した。なんだかんだ言って、おっぱいね。わたしはにこにこしながら、敢えて「おタバコは吸われますか?」と訊いてやった。「吸いますぅ〜」と答えた女が、わたしの案内に続いて抵抗する由竹をぐいぐい引っ張って来る。にこやかな顔のまま一度裏に戻り、メニューと水を置いたわたしはちょうど上がりの時間になったので、二人がその後どうなったのかは知らない。知ったこっちゃないけど。
わたしは目の前に置かれたクリームソーダをじゅるじゅると啜り、眉を顰める杉元くんに向かって頭を抱えながら唸った。
「待って、思い出したらむかむかしてきた」
「メロンソーダ一気飲みしたからじゃないの?やめなよ」
「やめない……もう一杯飲む……頼んで……」
「はいはい分かった、分かったから白石の彼女も続けろよ?」
「いや、それはやめる」
「立ち直り早いな」
杉元くんが卓上ベルを押すと、にこにこした店員さんがオーダーを取りに来る。ピンポーン、ピンポーン、すみませーん、クリームソーダください、あ、あとアイスコーヒーも追加で。はい、かしこまりました。クリームソーダとアイスコーヒーが追加でおひとつずつですね。あ、すんません、浮気しない彼氏、追加でひとつ。そんなくだらないことを考えている間に、オーダーを取った店員さんの背中は遠ざかっていく。いつの間にかクリームソーダのグラスは片付けられてしまっていて、目の前には頬杖をついてスマートフォンを弄る、至極面倒くさそうな表情の杉元くん。
「で、白石には言ったの?別れるって」
「別れますさようなら、って送ってぶっちした。ブロックしちゃったから、もう連絡先わかんない」
「わあ過激」
「だってー、勢いだったんだもんー勢いだったんですー」
「今ちょっと後悔してる?」
「……してない」
「してるね」
ヒャクパーしてる、顔に書いてある、と言われたので、わたしは慌てて頬を抑えた。後悔してるかと言えば、しているような、していないような。元々、わたしのような乳も可愛げも愛想もないような人間と、由竹が付き合っていることに、どことなく疑問は覚えていたのだ。ただ由竹がわたしのことを彼女として扱ってくれるし、わたしも由竹のことがそれなりに好きだったから、カレカノという関係性は疑問を抱えながら維持されていた。当たり前かもしれないけれど、どこが好きだから付き合おう、とか言われたわけじゃないので、由竹がわたしのどこを気に入って付き合いたいと思ったのかはよく分からない。でも、わたしが由竹の好きな所を挙げるとするならば、多分一時間程のシンキングタイムを要する。どこが一番、とかいうのではなくて、きっと一番好きが沢山集まって形成されたのが、わたしの好きな白石由竹という人間だった。全部が一番好きだから、理由をつけようと思っても言い表しようがない。ひとつひとつの好きが集まって、部分的なことなんてどうでもよくなって、生理的に好きだったから、浮気されていたと分かった時は、とにかく不快だった。特に、女を腕に絡ませておきながらわたしを見た時の愕然とした表情。あの時の由竹は生理的に受け付けられないし、できれば二度と見たくない。この先由竹と付き合っていても、あの表情をまた見るかもしれない可能性があるのなら、わたしは好きでいるより別れて知らないふりをしていた方がよっぽどましだと思ったのだ。彼女でいないのならば、浮気をされることもない。
あぁ、なんでわたしはこんなに面倒で、こんがらがった思考回路でしか答えが出せないのだろう。
「それだけ白石が好きってことだろ」
杉元くんがほとほと呆れましたという表情で、二杯目のアイスコーヒーを手に取る。粗野に見えてもきちんとストローをさしてお上品に飲むところは、杉元くんらしさを感じさせる。これが由竹だったら、そのままグラスをわし掴んでごくごくと勢いよく、まるで清涼飲料水のCMの如く飲み干していくだろう。いや、案外ストロー派かも?その後殻を蛇腹織にして、水を含ませて伸ばすしょーもない遊びとか、未だに好きそう。
こうして誰かを見ていても、由竹だったら、とかいつでも由竹を引き合いに出して、良いも悪いもない判断をつけようとする癖、本当にやめたい。慰みでもないし生産性もないのに、どうして人って比較ばっかりしようとするんだろう。寧ろ、逆に運が良かったのかも。由竹の浮気という一件がきっかけで、また自分の嫌なところを見つめ直すことができた。由竹がわたしと付き合っていてくれたむず痒い疑問も、これでもう気にしなくてよくなる。ここまできて、由竹に対する恨み節がこれっぽっちも出てこないのが、また皮肉で腹立たしいけれど。女性関係にだらしないのは付き合う前から知っていたし面食いだからしょうがないよな、そんな気持ちでいっぱいだ。
「ほら、桐子ちゃん、クリームソーダ来たよ」
杉元くんにそう言われ、顔を覆っていた手をそっと外せば、そこに立っていたのはばつの悪そうな顔をした由竹。由竹は机の横で直立不動になってわたしを見下ろすと、「ほんっとうにごめん!」の一言で、そのまま直角になるまで頭を下げた。
「ちょっと待って、なに!?」
「白石、流石に目立つって」
「いやもうまじで、許してもらえるまで俺、ここ動かないから」
「や、普通に迷惑だから。やめて真面目に」
わたしがそう言うと、おずおずと顔を上げる由竹。わたしは横に置いていた鞄をひっつかんで立ち上がると、さっきお昼ご飯を買った残りでポケットに突っ込んでいた小銭を取り出し、机にあるだけ置いた。
「ごめんね杉元くん、またね」
「いーよ全然、仲直りしてきなよ」
「いや、仲直りはしないけど」
わたしがそう言った瞬間、由竹がまた絶望を全面に出した情けない顔になる。だから、その顔を二度と見たくなかったんだってば、と思いながら出口に向かおうとすれば、困惑した表情の店員さんがお盆に乗ったクリームソーダ片手にわたしたちを見送った。
地球上で何億といるカップルのうち一組の痴話喧嘩を公衆の面前で晒すのは流石に憚られて、わたしは二人きりになれるところを探した。この話し合いのためにわざわざ由竹の家まで行くのはバカみたいだし、わたしの部屋にもあげたくない。わざわざホテルの個室に入るのも、そのまま流れてしまいそうで嫌だったので、しょうがないからうちの車にした。わたしの家のマンションにある地下のピロティに降りて、最近パパとわたしで折半して買った小型の軽に乗り込む。エンジンをかけていない車中には、なにひとつ音がしない。そんな半密室の空間で二人、わたしは運転席に、由竹は助手席に座って、どこに行くかも分からない話し合いを始めた。
「本当に本当にほんっとーにごめんなさい!謝って許してもらえるなんて思ってないけど」
「じゃあ謝らない方がいいんじゃない?」
「……いや、でも謝りたい。本当にごめんなさい」
由竹は両手を顔の前で合わせて、わたしの方をきちんと向いて謝った。しかしそれでは、わたしの虫の居所の悪さは直らない。
「なにが悪いと思ってるの?謝るってことは、認めてるってこと?」
「……まず、あれは高校ん時のクラスメイト」
「元カノ?」
「……高校ん時の、元カノ」
「ふーん」
「ただ、久々に会っただけだって!それで、引っ付いてきて」
「そのまましけこんじゃったと?」
「してない!してないから!!」
「ふーん……」
わたしの信じていない顔に、由竹はどんどん悲壮を帯びた顔つきになる。ほら。だから折角の男前がそんな顔面蒼白になるのは似合わないんだってば。黙っていれば普通にかっこいいしモテるのは知っているのだから、尻に敷かれる情けない男じゃなくて、「大学でも外でも、どこでもモテモテシライシヨシタケ」のままで威張っていてほしいのに。由竹をこの顔に、そうさせているのがわたしだというのが、この上なく不愉快。由竹の身の上から出た錆なのに、全てを由竹のせいにできなくて、わたしという彼女のせいだと考え拗らせるわたし自身の厄介さよ。
要するにわたしは、このどうしようもない男に心底惚れているのだ。
「まじでヤってない。未遂にすら至ってない。俺、お前があそこでバイトしてるって知らなかったから、見せつけようとかそんなんじゃなかったし、元カノに引っ張られてっただけだから」
「普段なら、嫌なことちゃんと拒否出来るでしょ。今回はオッパイのでかい元カノに会って拒否できなかったこと、しっかり反省して」
「はい……」
「で、由竹はわたしと別れたくないんだっけ?」
「ば……っか!馬鹿!!」
数センチ浮いたんじゃないかという程のオーバーリアクションで、今度は真っ赤な顔の由竹がわたしにまっすぐ向き直る。運転席の肩を壁ドンよろしく勢いよく掴まれ、一瞬どきりと心が音を立てた。
「お前なぁ、今の俺の必死さから分かれよ!?昨日から何回電話かけたことか」
「あ、ごめんブロしてるから通知もなーんもきてない」
「こっの……」
由竹はわなわなと震えると、がっくりと肩を落とし「まぁ、会えたからよかったわ……」と言った。項垂れたその姿が段々小型犬にも見えてきて、わたしは膝の上に乗せていた小さなショルダーから、今日着けているリップを探す。
「由竹」
「なんだよ」
由竹のほっそりとした頬を撫でて、おとがいにそっと指を寄せる。そのまま唇がよく見えるように顔を上げて、わたしは由竹の薄い唇にわたしと揃いの口紅をぐにぐにと塗りたくった。
「な、にすんだよ!」
「マーキングしとかなきゃなって」
「はぁ!?」
「由竹はわたしのものだって、誰が見ても分かる様に、もっと示しとかないとなって」
わたしがそう言いながらセミマットな赤リップを何度も唇に這わせていると、不意に由竹がその右手首を掴んで動きを封じた。同時に、おとがいを掴んでいた左手首も掴まれる。サイドレバーを跨いで引き寄せられた身体に、敵わない男らしさを感じてうっとりする。
「じゃあ、お前もマーキングしとかないとな」
「わたし、マーキングなんかされなくても、どこにも行かないけど。どこかの誰かさんとは違うし」
「ばーか、そんな気起こす前に行かせねぇわ」
自分の浮気を棚に上げておいて、のうのうとそんなこと言うのね。誰が聞いても正論だと頷いてくれそうなわたしの反論は、べったりと貼りついた紅越しの接吻によって亡きものにされてしまった。これだから男は。きっとこの後「スカート短いからバイトやめろ」とか言われても、「じゃあタバコやめろ」と反論しながら、わたしはバイトを続けるか否かの算段に入ってしまう。わたしはこの男に、骨の髄までしっかりマーキングされて、心底惚れているのだ。
「ちょっとこれ、どうしろと……」
ファミレスに一人残された杉元くんは、来たばかりのアイスコーヒーとクリームソーダを前に、若干困惑したらしい。後日、お腹がたぽたぽになったと不平を言われたわたしは、笑ってお釣りを受け取った。