プラチナの壟



 雪の上を後ろ向きに歩いた。腰にぶらさげた三十年式歩兵銃がいやに重い。弾はあと二発残っている。あとふたり、殺せる。息があがる。これは恐怖のためですか、それとも疲弊のためですか、それともこの身にまとわりつく酷寒のためですか。どこまでも果てしなく息があがる。震える。息が、肩が、唇が、彼を持っている両腕が。
 痛みすら伴う極寒の冬日。造反者を許すまじと断ずるような第七師団の狙撃に阿呆な同僚が倒れました。二時の方角から飛んできた銃弾に撃たれた、私を庇って。極寒の冬日、白に赤が飛び散った。私は雪の上に倒れて、そして呻いた同僚は私に覆いかぶさって動かなかった。雪に埋もれた背中がひどく冷たくて、背骨がぎしりと音を立てた。けれどその代わりに圧迫された左胸は熱かった。鼻腔を擽る、雪のにおい、硝煙のにおい、そしてそれを掻き消す程あたりに充満する噎せ返るような濃い血液のにおい。すぐ耳許で銃声が響いた、二時の方向から悲鳴が聞こえた。

「尾形、血、とまらないね」

 男のやや煤けた白い外套が更に水気を増して赤黒く染まってゆくのを見ながら私は雪の上を後ろ向きに歩いた。銃声はない、悲鳴もない、味方もない、敵もない、応答もない。名前を呼んでも、返事はない。あたりには新雪を踏みつける私の足音と物体が雪の上を引き摺られる音が悲しく響いている。灰色の空から降り続けている粉雪は強まるだろうか、視界を奪うまでになるだろうか、視界と聴覚を奪うそれがどうせなら意識も感覚もすべて消し去ってしまえば、いい。
 恐怖と疲弊と酷寒のために乱れた呼吸を繰り返すたびに、白くて生暖かい吐息が私の肌に纏わりつく。それと全く同様に尾形が不規則に繰り返す吐息もまた、彼が生きていることを篤実に証明しながら今にも消えそうに尾形の顔面に纏わりついている。舌の側にほんの少しだけ歯を立てて消えてしまえと呪う意識を、けれど私は必死に保つ。顔色の悪い男の閉じられた瞼に未だはらはらと微妙に降り続く雪が落ちた。じわりと体温に溶けたそれが涙に見える。私が後ろ向きに歩いた道には彼を引き摺ったぶんだけの線が出来ている。赤と白が混ざり合ったひどく歪な線。こんなに目立つ跡を付けてしまっていてはすぐに見つかってしまう。泳がせられているのかもしれないと思っても、迎え撃つにも難しく今更もうどうしようもない。私は密やかに呼吸を繰り返す尾形を引き摺って後ろ向きに歩く。心なしか尾形の身体は段々と冷めていくようだった。どろどろと流れる血液と、はらはらと舞う白雪と、遠退く精神。男の脇下に潜り込ませた両手を握りなおす。今この手を離してしまえば、男の足元にひたひたとゆっくり、けれど急速に近付いているそれが間違いなく彼の両足を絡めとる。そして私から彼を奪う。ものすごい速さで、なにも残さないで。
 乾く眼球を誤魔化すように瞼を下ろしてはこじ開けて、現実の凄惨に目を凝らす。いつだって冷静沈着で私よりもよっぽど強いのに不器用で無愛想で、人間不信が嵩じてなにかと遠回りして損をしてばかりの男の胴体は赤く染まりきっている。左肩は特にひどい。私は腹立たしさで気が狂いそうになる。銃声の音は鼓膜の奥に、彼の最後の体温はこの全身に今尚残っているのだった。

「尾形、こんなつまんない死にかた、あんたには、似合わないんじゃ、ないの」

 段々とその重みを増してゆく身体に毒づいた。理想としては、しわくちゃのおばあちゃんになりまして、縁側で、息子のお嫁さんとお茶を飲んでいるときにぽっくり、そんな感じ。幼い頃雑誌で見た、それが理想。死に際も死に方も選べない帝国陸軍がなにを理想論を、と思うこともあるけれども、誰かのためにだとか誰かのせいでだとか、そういうつまらない死にかたはいけない。私は私のために生きて、死んで、尾形は尾形のために生きて、死んで、それが理想。それなりの短くはない付き合いの中で感じた尾形の人間性はおよそ篤実とも誠実とも程遠く、どこまでも自分の良心を信じて尾形自身に正直に生きている印象だから、もしかしたら私の考えとは一致しないかもしれないけれども。弾除けにするならばまだしも、すぐさま反撃したとはいえ私を庇って撃たれたという事実も未だ信じがたかった。
 右足と左足を交互に後退させて進む。今の私はひどく不恰好に見えることだろう。情けなくて愚かしくて、救いようも無いだろう。けれど決して失くしたくはなかった、手にした体重を。
 腰にぶらさがっている三十年式歩兵銃には二発の弾丸。あとふたり、殺せる。けれどそれを使うにはこの手に抱えているものを手放さなくてはならない。私はなんのために発砲するのか、護るためにも奪うためにも引き金を引けない。どうしようもない。どうしたらいいのか、わからない。たったひとりを失くしそうになっているだけで私の優秀さはこんなにも削がれる。尾形とはちがう。やだよ、震えた声が震えたくちびるから零れ落ちて、尾形の額に弾けた。

「勝手に、殺すな」

 頼りなく呼吸を繰り返していた尾形が押し上げるように瞼を開けて言う。虚ろな目は、けれども正しく私を捉えた。焦点の合わない澱んだ黒々とした瞳と、私の名前を呼ぶ声に激痛で麻痺した膝が崩れる。雪が白くて、私が彼を引きずった跡が歪に一本の線を描いている。悲しく、愚かしく、生きていた痕跡みたいに。
 頬にひんやりと水滴が走る。雪が雨に変わったかと灰色の空を仰げば粉雪がはらはらと舞っていた。そして私の頬には海のにおいのする水滴ばかりが降り続く。雪に混じり、血液に滲み、痕跡を残す。生きている痕跡みたいに。
 水原、泣くな。瞼に着地した粉雪のせいで泣いているように見える尾形が言う。生きてるから、とも。それを最後に一切の音と色が世界から消えた。軍服に雪の冷たさが染みる、けれど立ち上がれない。それは安寧のためか、疲弊のためか、酷寒のためか、この両腕に感じる微量の熱のためか。
 私は泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、止まらない。嗚咽しながら、存在の証明の片隅を握り締めて、泣いた。