※現パロ

目覚めよ来るな永遠に



 自分の事が話題にのぼっていることなど何も知らないであろう気楽な文章が浮かび上がり、俺はどんな言葉を返すか逡巡した。
 向かいでつんとした顔をしながらコーヒーを飲む彼女に、なんの興味もないであろう俺の携帯が光った理由を告げたらどんな顔になるだろうと考える。自傷癖とは縁遠いと思っていたはずなのに、これもある種の自傷である、と感じながら「杉元だ」と呟くと、「え?」と彼女が予想通りの声を上げた。俺には聞かせたことのない声、そして恐らくはこれからも聞かせるつもりのない声。母親が電話に出る時に声のトーンが高くなるのと一部に類似があるのかもしれない。そこでだけよく見せようとする、みたいな。
 俺にとってはいつも通りかつ、かなりどうでもいいグループラインに送られてきた動物と映った杉元の写真を拡大することもしない。ただ白いカップを掴んだ青白い手が、何度飲んでも潤わない喉にコーヒーを送り込んで、言葉を探す姿を黙って見ていた。

「わたしとのライン止まってるんだけど」
「知るか」
「……うぅ」
「なんか送ればいいだろ」
「なんて送るの」
「知るか」

 送られてきた画像を拡大すると、杉元と目が合ったような気がして、嗚呼、と思った。嫌だとかむかつくだとかせせこましい感情ではなく、俺の見る杉元との見る杉元が違うのだと気付くからだ。
 まるで餌付けするかのように、携帯を自分の手元から動かすことなく画面を彼女の方に見せると、ちらりと視線を画面に向けて、直ぐに恥じ入るように下を向く。俺に対しては恐ろしいほど図々しく振る舞うくせに、変に律儀なところがある。
 テーブルに置かれてすらいない彼女の携帯電話の存在だとか、いつも割り勘にしようとする感じだとか、俺が気にしないことより自分が気になるという理論で推し進めては、俺が押し切る度、まるでこちらがいじめているような気になる程気分が萎える。
 携帯をぐりぐりと彼女の視界に入るように手を伸ばして顔の近くまで近づけると、エロ本を見せられた男子中学生のような顔でちいさく首を振った。

「ほら、杉元」
「わたしに送られてきてないのに見たらまずいよ」
「俺に見せて貰ったって言やぁいい」
「それはそれで尾形の心証が悪くなる」
「今更これ以上悪くなりようがない」

 そうかもしれないけど、と彼女は言ってから、ちらりと画面を見て、やっぱり見た自分を恥じ入るように顔を背けた。何より、は杉元を完全無欠のヒーローか王子様か、そういう崇高な存在だと勘違いしている節がある。恋は盲目と言えど、杉元を前にしたは今まで俺が見てきた同じ人間とは思えない程ぐにゃぐにゃになってしまうのだ。
 俺は、家事があまり得意ではなく、いつでもブラックコーヒーばかり飲む、少しせっかちで、アクセサリー等の装飾に拘りのないラフなを好ましいと思っているのに、杉元と出会ってからまるっきり変わってしまった。俺の目の前では、好きなものを食べ、飲み、笑い、少し酔うと首筋をほんのりと赤く染めたままざっくりと髪をひとつにくくる。尾形の前ではね、という殺し文句を添える癖に、杉元の前ではそんな言葉の意味を失う程、別人のようになる。であることには変わりないけれど、それは俺が良い、と思うではなかった。ちょっと控えめに笑って、華奢なアクセサリーをつけて、お酒を飲みすぎず程よく会話に参加する姿を見ていると、帰ってからブラックコーヒーを飲んで、部屋の片付けも明日に回すのだろうな、と考えるし、その想定はあまり間違っていないはずだ。
 王子様に釣り合う人間になりたいと言い出しかねないと思っていたけれど、本人はいたって真面目に見ているだけでいいと言い出すから、巻き込まれているこちらがたまったものではない。いつかは杉元の彼女を紹介されるだとか話を聞くだとかして、諦めたりなんなりするのだろうけれど、その時のことも想像したくはない。
 人の事なんて断片的にしか知ることは出来ないと言えど、自分の持っている断片的な情報を見るたび、俺が未だに何のアクションもしていないという客観的事実に驚く。フットワークがどちらかといえば軽い方で、ただ片思いをしているだけである筈の彼女を、肘をつきぼんやり眺めているなんて性に合わない。
 一番自分が信じられないというのに、まるでが杉元を見るように、俺も彼女を美化しているのだろうかとすら考えてしまう。理想という型に押し込めている限り、愛情が揺らぐこともなく、壊れることもない。安心と安定を求めるにはまだ人生早すぎるというのに、自分は何を恐れ、何を守ろうとしているのだろうか。

「会いたいなぁ」
「誘えば」
「……できないよ」
「俺の事はこんな手軽に誘ってるくせにか」
「尾形はさーだってさー優しいしさー」
「杉元の方が優しいだろ」
「もし気を使わせちゃったらとか思うと無理」

 「会いたいけど、会いたくない」、コーヒーを飲み干し、さっと手を上げておかわりを頼む隙間に、なぜかそう断定的に言い切った。どうせここに杉元が現れたら両目の端をどろどろに溶けさせて、何度も瞬きをして、へにゃりと笑うのだろう。注ぎ足されるコーヒーの強制的なほど強く立ち上ってくる匂いに俺の胃がむかむかしてくる。
 少しでも俺がこの話題に飽きた、という顔をすればはそれを察知して違う話題を持ってくるだろうし、お互い所在なくなることもなく無難に、今まで通り会話を続けられることも知っている。でも俺は、まるで二人の関係に興味があるような顔をして、会話を続けてしまう。怖いもの見たさなのか、自傷癖なのかまだよく分かっていないまま、少し長すぎる爪が何度も無意識にテーブルを叩く音を聞きながら。
 杉元の前では決してしないであろうところを、俺は見ている、という訳の分からない優越感に浸っていることには気付かないふりをする。
 この絶妙なバランスも苦しく、本当は早く杉元がと会うことがなくなったり、杉元に彼女が出来たりすればいいと願っている。けれども俺が人を紹介することもわざわざ二人の邪魔をすることも今のところは絶対にありえないし、それと同じくらい二人がくっつくことも無いのだ。
 見ているだけでうまくいく世界なんてない、とまるで自分に言われているようだ、と考えた言葉が喉の奥で引っかかってから気付く。どうして、本当に話したいことを話すことが出来ないのだろう。伏し目がちになったその表情は一見思い詰めているようだけれど、どうせコーヒーが冷めるのを待っているだけで深い考えなんてないのだ。
 じゃあ俺は、何か、深く何かを考えているだろうか。

「嫌なら断られるだろ」
「それはそれでへこむからいいわ」
「付き合いたいのか、杉元と」
「……無理でしょ、天地がひっくり返って仮に付き合えても三日も持たず振られるのが目に見えてる」
「そこは現実見てんだな」
「うん、尾形もそう思うでしょ」
「お前は杉元よりは俺と付き合う方が向いてる」
「確かにそれ」

 当たり前の顔でそういってコーヒーに口を付け、まだ熱かったのか「あち」と舌を出して、またカップを置く。
 向き不向きという言い方が正しかったのか分からないけれど、本当に、確かにそうなのだ。それでも、確かにそうであることだけを人は選べないし、ここから彼女を言いくるめる言葉や力を俺は持ちたいと思わない。
 たいして会ってもいないらしい俺の知っている人では無いような杉元の話を、壊れたレコードのごとく繰り返し話す彼女の生き生きとした、どこか夢見心地らしい顔を見ている今を、俺は、どうしてか快い、と感じていた。
 いつの日かこの時間や関係を、快い、と感じなくなり、何もかもをはっきりとしたくなる瞬間が来ることも知っていて、だからこそ、一瞬しかないこの絶妙なバランスは痛みと快感の狭間で俺を動けなくさせている。