※現パロ

橙に染まる



 来訪してきた浩平は、いやに自慢げな表情で大きなビニール袋に入った大量のみかんをこちらに見せて笑った。
 わたしの家にやってくる前、電話をしてきた浩平が「桐子の家じゃないとだめだから」とやけに熱弁してきた理由が少しだけ分かった気がした。
 さむさむ、と小さく零す彼を横目に、わたしは彼に見えないように笑みを湛えながらお湯を沸かしてほうじ茶を淹れる準備を始める。確かに浩平の家では物足りないだろう、と急須に茶葉を入れて、わたしの部屋にある些か大きいこたつに視線をやった。
 こたつにみかん、というのは冬の王道であるし、浩平が洋平とふたりでシェアハウスしている雑多だけれどもちょっとお洒落な部屋で食べるよりも、意外と雰囲気があって美味しく感じたりするのだというのも理解ができる。
 それだけと言えばそれだけの理由で今日はここまで来てくれた彼のフットワークの軽さや、季節を楽しむ心みたいなものに少しばかり感心しながら、分厚くもこもことした靴下の上からスリッパを履いてもまだ底冷えする足の指先を動かして、お湯が沸くのを待った。ヤカンがしゅんしゅんと音を立てた瞬間、いつもより何倍も手際よく二人分のお茶と急須をお盆に乗せて、こたつに滑り込む様に入る。

「さっむ」
「お帰りぃ」
「これ、わたしのおこたですけど」
「え、でもお帰り感あるから」
「……あー、まあ、はい」

 淹れたてのほうじ茶の香ばしい匂いを嗅いだ浩平が、心地よさそうに目を細めた。
 この部屋には些か大きすぎるこたつはわたし一人で入ると持て余してしまうばかりの広さだというのに、身体の全部がいちいち長い彼が入るとそうでもないように感じる。隣に座っているせいか、自分の足の終わりと彼の足の終わり位置の違いが余りにも違っていて、愕然としそうになるほどだ。けれど、そんなわたしの考えなんて一ミリも想像していないらしい浩平は、テーブルにたくさん並べられたみかんのうちのひとつを、ティッシュペーパーの上で黙々と剥き始める。
 みかんを食べるのをわたしが戻るまで待っていてくれたりするのが彼の律儀で優しいところだと思ったけれど、ただお茶を待っていただけなのかもしれない、と考えを改める。
 どちらにしろ先に食べているわけではないし、と自分もみかんを手に取ろうとオレンジ色の塊に視線を向けてみるものの、彼の左手側に積んであるみかんは右側に座っていて、尚且つそこまで腕の長くないわたしには届きそうにもなかった。
 彼が満足してから剥いたものを分けてもらえばいいだろう、そう結論付けて湯気を出しているほうじ茶の入った湯呑を両手で包みお茶の香ばしく甘い匂いを身体いっぱいに吸い込んだ。
 意外にも手際よく、無造作にひとつのみかんの皮を剥き終えた浩平が剥けたみかんのひと房を指先でつまんでこちらに向ける。浩平の指先はささくれていて、爪が分厚くて、最近切ったのか短い爪の奥がみかんのせいで黄色くなっていた。

「はい」
「……はい」
「どう?」
「や、おいしい、です」
「だよなぁ」

 静岡の実家から段ボールいっぱいに送られてきたというそれ、「洋平は三日目で飽きたって言ったから、これは桐子と食うしかないって思って」と、その後ひと房のみかんを口に入れた後、しみじみとした様子で彼は言った。彼の指先が自分の舌に触れたことでみかんの味が余りよく分かっていないことも言えないまま、なんとなく口に残った白い筋を飲み込む。こんな照れくさいことを、浩平は照れくさいともなんとも本当に思っていないのだろうか、なんて訊くほどの勇気をわたしは持ち合わせていない。
 それから、自分の前にもティッシュペーパーを引いて浩平にみかんをひとつ取ってもらった。親指を差し込んでばりばりと皮を剥いていくと、柑橘系特有の気持ちが良くさっぱりとした匂いが立ち上ってくる。
 確かに、彼ら二人だけで食べるにはもったいないみかんかもしれない。薄皮のなかでオレンジ色の果肉ははちきれんばかりに瑞々しさを主張していた。白い筋をざっと取ってから、ひとつふたつと口に運んでいくと、浩平の視線がこちらに向けられていることに気付いてしまう。ほうじ茶を飲みながら、浩平はもうまるごとひとつみかんを食べ終えていた。二つ目を食べるでもなく、お茶を時たま啜りながら、こちらをじっと見ている彼の口元にそろそろと房のみかんを近づけると、まるでパン食い競争かの如く一瞬でみかんが消える。少しかさついた唇と、お茶の所為かいやに熱い彼の舌の感覚が指に残った。

「自分で剥けば」
「一個くらい良いじゃん」
「じゃあ、これで終わり」
「もう一個、」

 数え切れないみかんは多分置いて帰るのだろう、だったら彼にも少しばかり食べてもらわねば。言い訳のようにそう考えながら剥いたみかんを餌をあげるかの如くひとつふたつと彼の口元に運ぶたびに、唇の感覚と舌の熱さが強くなってくる。
 わたしの頬や指先が同じように熱くなっていることになんて微塵も気づいていないだろう、と能天気だったのはわたしだけらしく、途中から彼はそのからかうような瞳を隠すことをやめていた。与えなければいいはずなのに、あの感覚と熱さをあともう一度、と思うと抜け出せない。
 みかんを持った人差し指と親指を、彼の唇が触れてしまう前に引き抜こうとした途端、心を読んでいたかのように手首を掴まれてしまう。あたたかく、武骨な、節のしっかりした浩平の指先が、自分の手首をしっかりとくるんでいる。
 ゆっくりとみかんを指先から口元へ運んで、彼が咀嚼するだけで、甘酸っぱい、さわやかな匂いが立ち上って、消えていった。口の中にものが入ったとき特有のくぐもったままの声で浩平がしゃべりだす。

桐子も食うだろ?」
「キスしないでね」
「なんで」
「手の平で転がされてる感じがしていや」
「なんで?だめなの?」

 嫌かどうかなんて、分かり切っているくせに、答えなんて知っているくせに、笑顔を保ったまま、言葉にはきっちり疑問符をつけてくる。みかんの匂いを立ち上らせているのは、彼の口元であり、指先であり、わたしの指先でもあった。
 彼はすっかりとみかんを飲み込んでいて、わたしの手首を掴んだまま「ほんとに嫌だった?」と言いながら、反対の手でみかんを自分の口に入れた。手首を掴まれて距離が縮まったせいで、足同士もぶつかって、彼の長い足がわたしの足に触れてくる。彼の足の裏が、わたしのふくらはぎや、足の甲をゆったりと撫でる。
 みかんの匂いがして顔を上げると、目を細めるようにして微笑んだ浩平がわたしを見て触れるだけの口づけをした。小鳥がついばむようなちいさな音がして、思わず彼の胸板に顔を押し付けると、彼がわたしの髪の毛を無造作にぐしゃぐしゃと撫でてくる。まるでちいさな動物にするみたいにぐしゃぐしゃにして、それに耐えきれず顔を上げると、どうしようもないくらい綻んだ顔の浩平が、両手で両頬をそっと包むようにしたあと、唇を押し付けてきた。
 溺れてしまうような、呼吸もままならない深いキスの合間に、掻き回されるように撫でられる感覚や、甘酸っぱいみかんの味が過っては、消えていく。