※現パロ

僕らは決して交わらない



 びゅう、と強い風が吹いて思わず、片手で髪を抑えた。真っ青な膝丈のスカートが、学生時代は開いていなかったピアスが名残惜しそうに揺れる。
 学生時代、ここから街を見下ろすのが好きだった。公園の裏手の階段をぐるりと回るだけで十分もかからずに行ける、学生が「浸り」たくなるような場所。
 あの頃は、膝が隠れるスカートが嫌いで、早く化粧を、ピアスを、覚えて大人になりたいと思っていた。指定されている制服に靴下に鞄に髪型、ぺたんこのローファーのせいで彼がすごく大きく見えたことも覚えている。すべてが子どもだったから、それだけを言い訳にして、たくさんのことを甘えて、たくさん許してもらったはずなのに。
 すこしずつ家の明かりが灯り出したころ、鞄の中に入っている携帯がまた震えていることに気付く。気付かないようにしていたけれど、そろそろ戻らなければいけないだろう。
 家族でもないのに、というドライな言い方をしてしまえばそれまでだけれど、彼だったら「けねんごたっもんじゃらせんか」ときっとわたしに笑って見せるはずだ。両親はすっかりこの土地に慣れているし、たまに実家に戻ってくる音之進くんたちともわたしよりずっと会っているらしい。
 びゅう、また風が吹く。

「戻りたくない」

 声に出していたことすら気づけないほど、当たり前のように言葉が喉から滑り落ちた。幼いころに引っ越してきたこの土地はもうほとんど地元のようであり、だからこそ少し年上で親切なお兄ちゃんのような彼にわたしが憧れの念を抱くのにそう時間はかからなかった。
 何度目か分からないほど、変わらない景色と、変わってしまった自分を比べて深い息を吐く。もうヒールを履くことが当たり前になって、短すぎるスカートなんて気恥ずかしくて履くこともできない。

「おったおった」
「……あれ、なにしてるの」
「探しけ来たがよ」
「お母さん、怒ってた?」
「まぁ怒っちょったじゃ」
「だよね」

 音之進くんはわたしの隣に立って、「桐子見つけもしたって連絡しとっど」と携帯に触れる。素早く携帯を操作して、ズボンのポケットに押し込んだ。
 何年ぶりに会うのか、思い出すこともできないけれど、なにも変わっていないようにもすべてが変わったようにも見えた。
 音之進くんに視線を向けると、鮮やかな緑の葉の奥に、いつの間にか萎れて茶色くなっている紫陽花があることに気付いた。
 ただ、オレンジから黒に染まっていく街を、じっと見て、このままここに来たこともなかったことにできたらよかったのに。
 一番不本意だったのは、人の気持ちを慮ることのできる人だと信じていた彼が、紹介したいから、と何度も念押しをしてわたしをここに呼んだことだった。真っ黒のキャップ、すこし大きめのTシャツにジーパン、武骨なアクセサリと、きらきらした瞳。

「帰っど」
「……そうだね」

 もう子どもじゃない、とわたしの靴が、服が、ピアスが、髪の毛が、化粧が、言っている。ゆっくり、ゆっくりと、スローモーションのようにわたしの真っ青な少し長いスカートが揺れている。まぶしいほど、涙が出そうなほど鮮やかな青いスカート。
 わたしに背中を向けて歩き出す音之進くんの後ろを、わたしはついていく。
 いつの間にか補正されて少しばかり歩きやすくなり、電灯の設置されている裏道にも時代を感じた。
 ちらり、と後ろを振り返ってみると、空はもう真っ暗で、ただぽつぽつオレンジの光が灯るだけだった。ぼんやりとした灯りのなかで木と土で構成された階段を一歩一歩降りていく。

「転ぶなじゃ」
「大丈夫」
「まさかここまで登っとは思わんやった」
「他も探した?」
「まさか、ここ一択」
「あぁ、そっか」
「よう来ちょったよな、昔。ないがおもしろいんか分からんやったけど」

 きちんとわたしを見て、音之進くんが手を伸ばした。言葉にしなくても、掴まって、というアクションであることはわかったけれど、わたしはその手ごと彼をすり抜ける。頼りのない灯りの中で、彼のまつ毛に影が落ち、伏せられた瞳に悲しみの色が浮かんでいること位背中を向けていてもわかった。
 子どもみたいに、先延ばしにしちゃったな。
 一歩一歩、階段を下りて、家族と、今隣にいる彼がわたしに紹介したいという人の待つ家へ向かう。
 音之進くんはうちの子みたいなもんだから、と昔母が言っていたのを思い出した。ほんとのお兄ちゃんだったら結婚できないから、ほんとのお兄ちゃんじゃなくてよかった。そんな悠長なことを考えていたわたしに教えてあげたい、別にお兄ちゃんじゃなくても結婚はできなかったみたいだよ、と。

「最近どうなんじゃ」
「ぼちぼち」
「彼氏は?」
「そんなこと訊かないでよ、うちのお母さんだけでも辟易してるのに」
「言わるっとな」
「そ。音之進くんが結婚するから多分拍車かかるね、今から憂鬱」

 自嘲気味に笑ってみせると、音之進くんも嘘みたいな笑い声をあげる。
 階段の終わりが見えてきていつものコンクリートの道が、信号が、少ないながらもある車通りが視界にちらついた。

「五人でなにすんの」
「どっか飯行こうかって」
「そっか」

 はじめて出会った時から、今この瞬間まで、恐ろしいほど音之進くんに恋をしていたと話したら彼は笑ってくれるだろうか。
 好きなふりと、好きになってしまったものの違いも、嫌いになる方法がないことも、知っていた。強制的にシャットダウンされるわたしの初恋は、どんなふうにわたしの心に残るのだろう。ひたすらに真実を貫くという優しすぎる彼の残酷さすら、今もこうやって受け止め続けるしかない。

「音之進くん」
「ない?」

 コンクリートに足をつけてしまう前に、現実に戻ってしまう前に、ピンヒールに土が埋まる感触を感じながらわたしは深く息を吸う。フレアスカートの裾が足に絡みついて、少し足を動かすとつま先の汚れたお気に入りの靴が目に入った。
 音之進くんの瞳は夜のようにただすべてを吸い込むようにわたしを見つめていた。わたしがなにを言いたいのか、彼は知っているし、そのことをわたしも知っている。けれど、幼く勇気もなく、彼の隣に立っているたくさんの女の子をぼけっと見つめていたわたしはもういない。
 もう、いなくならないといけない。
 ずっとずっと好きだったと、わたしが言えば、音之進くんはなんというだろうか。多分、答えも、顔も、仕草も全部、目を閉じればまるでもう既に起こった出来事のように想像することができる。
 それでも、わたしは言うだろう、ここまで一人で来てくれた音之進くんのために。諦めるのだと、あなたの妹分のような顔で微笑むために、それが最後の愛情表現なのだから。
 黒では意地悪だと何気なく選んだ真っ青なスカートが揺れるたび、あの頃から変われないままのわたしを抱きしめてくれている気がした。

 ふかく、ふかく息をする。何年も口の中で転がしてきた簡単な言葉を、過去形にして伝えるために。
 文末に「おめでとう」と付け加えることも忘れずに、そして幼かったあの日のように泣いてしまわないように。