彼はよく目立っていた、人を惹きつける華やかさがあった。
真っ黒の髪に、両耳にぶら下がった二センチほどのフープ型のピアスがそこまでけばけばしく見えない雰囲気。真っ黒な髪からそのまま写したような、真っ黒のハットにマフラーにコートに細身のズボンとシンプルで高そうな靴、どれをとっても図書館にはそぐわない。
リュックサックに入れた十冊の本を返却口に立つお姉さんの前に並べると、司書のお姉さんは慣れた手さばきで中に余分なものが入っていないか確認する。それから三冊、三冊、四冊と、集めてはトントンと縦にしたあとで本を揃え「ありがとうございました」と見慣れた笑みを浮かべてくれる。わたしは小さく礼をして、次は何を借りようか、と本棚の海の中をさまよい歩く。
先程わたしの後ろを通り抜けた彼はいつも何を借りているのか分からないけれど、一番大きな窓の横にしつらえた一人がけのソファで雑誌や本を読んでいる。彼の目の前を通り抜け、文芸の棚の先程帰した「お」で始まる作者からその次、「か」から順番に見ていく。
自分の家から一駅の所にここまで大きな図書館があることに気が付いたのは知人の何気ない一言で、そこからこの数ヶ月ほどわたしはこの図書館に通い詰めている。本がなかなか高くて買えない、という理由ももちろん大きかったけれど、本の海をさまよい、知らない名前の、知らないタイトルの本を手に取り、それが今まで知らず尚且つ自分の好みであった時の幸福感たるや、言葉では表せない程だった。ファッション誌なども毎月きちんと入れ替わる大規模な図書館の文芸の蔵書は数え切れないほどで、毎週返却期限の二週間で上限ぎりぎりの十冊を借りては、また電車に乗って帰る。
ただなにが素晴らしいというと、この図書館の駅の裏手には、いかにもな懐かしのクリームソーダが、ナポリタンが、コーヒーゼリーがある古きよき純喫茶が存在しており、わたしはそこでいつも本の一冊二冊を読み終えてしまう。禁煙席に座っても喫煙席の濃密な煙草の香りが漂ってくる店内には、大きな花瓶と艶やかな花、泳ぐチープな色の熱帯魚が顔を上げればそこかしこに置かれている。ふかふかとしか言いようのないソファのような椅子にどっかりと座り、何杯目か分からないあたたかい紅茶を飲みながら、まだ知らない世界に沈むため、ページを捲る。
早く十冊を厳選して、喫茶店に行きたい、そろそろお腹も空いてきたし、などと考えながら視線を素早く巡らせる。五十音のか、から始めた視線が今日は滑って、止まることがない。あまり引っかからないこういう時は安定した好きな作家の未読本にチャレンジするのもいいだろう。敬愛するショートショートの神様である作家の本に手を伸ばすと、ごちゃりと手に指輪がついた手が重なるように伸び、「どっちだ」とぶっきらぼうなのにどうしてかあたたかく聞こえる言葉が響いた。
「こ、っちです」
「一番上とか届かないだろ、あんた小さいし」
「あー……そうですね」
「これ、面白い?」
「わたしは好きです、短編集なんですけど、その隣のはもう読んだんですけどお勧めです」
彼はわたしに一冊を手渡した後、もう一冊、わたしがお勧めと言ってしまった本を引き抜いて、まるで子どもがおもちゃを見るかのように手の中で弄ぶ。
ごちゃりとした指輪のついた手の主が、黒髪の端正な顔立ちの青年であったことも、気軽にわたしに話しかけてきたことにも混乱していたけれど、何より彼の声ははじめて耳にする特殊な声で、ざらついているようでしっとりとしていた。
本人はこちらの視線を全く気にする様子もなく、その文庫本をぱらぱらと捲っている。並んで立ってみると、ヒールを履いているというのに見上げなければいけないほど彼の背は大きかった。いつの間にか帽子は外されており、首元にも大きいシルバーのアクセサリーがぶら下がっていることに気が付いた。黒ずくめの彼によく似合っている、と名前も知らない筈なのに考える。
まだ一冊しか決まっていない、彼に取って貰った本を持ち直してちいさく頭を下げ、踵を返すと、声が、足音がこちらを追ってきた。
「いつもめちゃくちゃ借りてるよな」
「いつも何読んでるんですか」
「俺?俺は、ま、色々。本好き?」
「好きです」
「重くねえか?」
「重いけど、家近いので」
目が先程よりもずっと滑り、上から響く声はまるで懐いた動物のようにわたしの近くを漂っている。へえ、と納得したのか分からない声がした後で彼がわたしの本を簡単に持っていく。ただじっとそれを見て、空っぽのリュックサックに入った財布が空白の中でコトンと揺れたのが分かった。
「俺が持っとく」
「えーと」
「もっと借りるんだろ」
「今日はこれだけです」
彼の手から本を奪い取り、リュックサックに入ったカードを取りだす。待てって、という声を振り切るようにカウンタに本とバーコードの入った図書館のカードを滑らせる。二週間後の返却期限が印字された紙が一冊の文庫本に挟まれると、後ろで彼が立ち止まっているのが分かった。
「カードは?」
「……ない」
「……これも借ります」
彼の本を受け取り、わたしは数十秒前と同じ行動を取った。司書のお姉さんはふわりと営業スマイルを浮かべ、先程と同じ行動と同じ「返却期限は二週間です」という言葉をわたしではなく彼に向かって告げた。わたしはその本を彼に渡し、「ちゃんとここに返しに来てくださいね」と告げると、「分かった」というやけに律儀で真面目な声が聞こえる。
赤くふかふかとした絨毯を進み自動ドアを抜けると、大きすぎるエントランスと広がる出口の閑散とした自動ドア。
喫茶店でこの一冊を読んだらUターンでもしよう、彼がきちんと本を返してくれるといいのだけれど、隣に未だ立つ彼が小さく何かを言ったのが聞こえる。少しだけはねた髪を困ったように指先で触り、銀のピアスを耳朶で揺らしながら、厚めの唇がゆったりとした速度で動く。
え、と聞き返すと、彼は勝手に驚いた、いや、納得したような顔をする。
「もう普通に喋って良かったのか」
「……あぁ、出たからですね」
「そうそう、あそこ静かだからなー」
「で、なんて言ったんですか」
「ここの駅の裏にある喫茶店知ってるか?俺、よく行ってんだけど、多分気に入ると思う」
この駅に出口は一つしかなく、裏手の喫茶店でチェーンでないものは一店舗しかない。もしかして、理由は全く分からないけれどこの目の前の彼は、わたしにそれをわざわざ伝える為にここまで、わたしの今、隣にまでいるような気がした。
多分店の存在を知らないと答えれば今から案内しそうな、それでいて、別に彼は店と関連しているような雰囲気もまるで漂わせていなかった。秘密基地をこっそり、でも、自慢気に伝えるような眩しく、けれど同じくらいに限りなく密やかな声。
「……多分、わたしが今から行こうとしているところですね」
「知ってたかー。その可能性は考えてなかったな」
「……はぁ」
「相席していい?」
「御名前、教えてください」
彼は本を手元で何度も触り、ブックコートフィルムのかかった側面を人差し指で撫でた後、「キロランケ」と名乗った。聞き馴染みのない発音で、冗談みたいな名前なのに、指先にはまった指輪も、揺れるピアスも、首筋の白さと洋服の黒色も、全てが嘘では無かった。
キロランケ、まるでおまじないの文句のようにわたしがちいさな声で呟くと、「俺も名前聞いていいか?」とキロランケさんが微笑んだ。流れ星のような微笑み、といったら陳腐で読書家として失格だろうか。それでも、きらりと輝いた彼の魔法のような夢のような幻のような奇跡のような微笑みを、そう思うことしか出来なかった。
指輪をぼんやりと見つめながらキロランケさんには聞きたいことがたくさんある、行きなれた喫茶店の飲みなれたポットの紅茶の味を思い出しながら、わたしは歩き出す。
葉の落ちた木の道を黙々と、彼の長い足で簡単に追いつかれると分かってて、追いつかれないように、捕まらないように歩き出す。
キロランケ、と繰り返している心が、お互いに図書館にいることを認識し合っていたという事実について深く考えていることが透けて仕舞わないように。
「今日はまだ鞄軽そうだな」、わたしの背中に向けてそっと呟いたキロランケさんには言葉を返せなかったけれど、もう少ししたら、きっと、もっといい言葉が返せるような気がしていた。