※現パロ

蒼冷と純黒



 自販機みたい、と、目の前に立つ房太郎に向かって言いかけてから、久方ぶりに会う友人に言うには失礼な言葉だと思い、口を噤んだ。
 かつては頻繁に女子と見間違えられがちな程に長かった真っ黒の髪は見たこともないくらい短く切られていて、整った顔立ちが更に精悍に見えた。服装は変わりなく、だからこそ、短く黒い髪と、白い肌と大きな瞳が浮き上がるようにくっきり、はっきりしていた。
 鞄を片方の空いている椅子に置いた後で、わたしをまじまじと房太郎が見て「久しぶり」と言った。懐かしそうでも嬉しそうでもなく、平坦な声で、実際に会うのはたったの数年ぶりだし、その頃に親しかった友人の彼氏だった彼とは友人の彼氏という絶妙な距離だけが目立つ薄い間柄だった。結局、わたしはその子とも、房太郎とも疎遠になっていったのだけれど。
 まだわたしと、どうしてか房太郎しか来ていない閑散とした店の中で、確かに別々の場所に座るのも間違っているような気はする。それでも、一番端につまらなそうに腰かけていたわたしの向かい側にわざわざ房太郎が座る理由もなかったのではないかと思うのだ。一緒に来るつもりだった友人は先程タクシーに乗ったという連絡が来ていたのであと三十分も経たずにやってくるだろう。あと一時間もすればこの静かさは失われてしまうのだと分かりながらも、喧騒を身体が求めていた。恐ろしいほどの居心地の悪さを身体いっぱいに含んでしまっていて、顔をどこに向けたらいいのかも分からない。
 全くの初対面であれば、名前だけ聞いたことがあったりしたら、もう少し変わっていたかもしれないけれど、そうではないのだ。お互いに下の名前で呼んでいたけれど、取り立てて二人きりで会ったことはない、適当な間隔を持った間柄。見ているだけですうすうとする首筋を撫でながら、反対の手で携帯を触る彼を一瞥して、わたしは目を伏せる。もう少しでやってくる友人が混じれば、彼ももう少し機嫌よくなるだろう、と思いながら。

「疲れてんの?」
「え、ううん」
「そうか」
「そう見えた?」
「ちょっとな、なんか静かだし」
「いや、ただちょっと緊張しただけ」
「何に?」

 声をかけられるとは思っていなかったけれど、かけられた声の平坦さには確かに馴染みがあり、何度かこれに似た会話をしたような気がした。内容ではなく、彼がわたしやなにかを気にかけて、けれど心配そうでもなく、ただの疑問に近い薄っぺらさみたいなのが快かったのだ。
 彼の言葉は、顔よりずっと武骨に響くのだな、と想像よりテンポよく繰り返される会話の中でそう考えた。緊張しただけ、と言ってみると、肩に力が入っていたことに気付き、ゆっくりとその力が抜けたのが分かった。ふと口紅を塗り直したのがいつのことだったのか不安になる。
 ただ顔を上げて何事でもないように房太郎の顔を見つめると、彼は少し顎を上げたあと自分を指して「俺?」という間の抜けた声を出す。目の前に立って椅子に腰かける一連の動作を見た時からずっと、身体中に力が入っていた理由は紛れもなく、彼だ。間の抜けた声はそのまま笑いに変わり、彼は顔を歪ませてから首をゆっくりと左右に振った。わたしは、まだ微笑んだ余韻の残る幼げな彼の顔を見返しながら、言葉を組み立てる。

「久しぶりだから、なんか、大きいし、背も」
「背はさほど伸びてないと思うけどなぁ」
「でも、目の前に来たら大きい、ってびっくりした」
「そんな威圧感あるかぁ?」
「うーん、でも珍しいよ、周りにそんなスタイルの人いないし」
「それ褒めてんの?」
「一応褒めてる、でももう慣れてるでしょ、褒められるの」

 「顔だってまたかっこよくなってる」と付け足したのはお世辞ではなく、最初に自販機みたいだと思ったのと同じ時にそうも思ったからだ。ただ、自販機云々よりは耳馴染みよく聞こえるであろうという言葉を選択して口に出しただけで。
 彼の眼が開かれ、一本一本が数えられそうなほど光に照らされたくるんと上がっているまつげの先を眺める。平坦だと思ったはずの声より雄弁な彼の小さな身体の軋ませ方や、顔の動きを、飽きることなく見ている自分がいた。
 どんな顔をしているのだろう、考えるまでもなく、探求心の塊のような顔をした自分の顔を想像しながらわたしは彼の耳朶から下がる金属のちいさなアクセサリーに目が吸い寄せられた。言葉をなにか発しようとする房太郎の肩や、唇が小さく動くたびに、心許なく揺れる耳飾りのシンプルな形と鈍い色。目を縁取るみたいに沢山あるまつげの束がばさりばさりと動いて、真っ黒い瞳が光を映してひたすらに色を変え続ける。

「ピアス開いてたっけ」
「あー、うん」
「そっか」
「なぁ、さっきの、あのー」
「なに?」
「……なんでもねえ」

 そう言って房太郎が目を伏せるのでわたしは場を和ませようと、今もタクシーでこちらへ向かっている友人の名前を上げた。彼は眉を少しだけ動かして「ほんとは一緒に来る予定だったんだけど」と言うわたしの声を聞いているのかいないのか、わたしの斜め上の空っぽの空間を見ていた。

「今日、桐子と話せたらいいなって思って来たんだけどさ」
「うん」
「もっと二人で話したいっていうか、」
「話してるじゃん」
「ちゃんとまた改めて、別に俺は今日でもいいけど、桐子は嫌だろ、だからまた今度」

 房太郎の声に含まれたたくさんの波に飲まれそうになりながら、最初の平坦さがどこにもない事に言葉を失う。言葉がおかしいわけでも、早口なわけでも逆に遅いわけでもなく、なんら間違った部分のない声。それなのに、頭の中で警鐘が響くのは、彼の声に混じっている波とか、熱っぽさみたいなものがわたしの心をぐらぐらと動かすからだ。
 先程とは反対に、わたしが彼の斜め上の空虚な空間を見詰め、それでも差し迫った二人の時間が壊れる前に必死に言葉を探した。なにもかもが勢いなのかもしれないけれど、勢いで動いて失敗してもまだ大丈夫なのかもしれないと、熱っぽい房太郎の声を聞いて思ったのだ。
 熱に浮かされたまま立ち上がったわたしを見上げた、常闇のように見える黒い瞳を見詰めて唇を開いた。

「ううん、どっか行こう」
「え?」
「嫌だったら、また今度」
「……いいのか」
「うん」

 携帯が震えたような気がした。もう着くというような友人の連絡だろうか。
 目の前でちょっとだけ身体をゆすった房太郎の、肩の骨のがっしりとした形を線を引く様に視線を動かした。
 なにも決まっていないのが丸わかりのまま歩き出す房太郎の横を、同じくなにも決まっていないという足取りで歩いていく。恐ろしく無計画で恐ろしく常識のない行動だと分かっているにも関わらず、それでもまた身体を夜の空気に当ててみると、ぼんやりと街灯に照らされた房太郎がこちらを見て、「意外だったな」と、静かに呟いた。
 本当はこちらの台詞だったのだけれど、わたしは聞こえないふりをして、まるで行く場所があるかのように歩き出した。
 なにも決まってない、そう言い切ったとしても房太郎が笑うのだと分かっているから。