ばさり、と彼がケープを広げる。
ちいさなベランダに広げられた新聞紙、その上に置かれた椅子に座るわたしと上機嫌の房太郎の声。いつも仕事で使っているシザーケースの中から取りだした大きめのピンでわたしの後ろ髪をざっくり、手際よく止めていく。
少し日が暮れてきたとはいえ、残暑の厳しい今の日の光はすこしばかり眩しく、そして暑い。房太郎はラフな格好だけれども、わたしは洋服の上からケープをかけているのだから、当たり前といえばそうなのだけれど。
「ご機嫌だね」
「いや~、まさか俺、頼まれると思わなかったから」
「一回くらいはいいかなって」
「えっ、一回だけかよ」
「どうしよ、考えてなかった」
「お金取んねえし、めっちゃ要望聞くし、桐子に似合う髪形とかしたい髪形とか考えるし」
房太郎と出会った頃、彼はもうとっくに美容師を生業にして生計を立てていたし、わたしはわたしでもう何年も通う行きつけの美容室があった。カットもカラーも決まった担当の人と話して決める、という感じだった上、彼氏の職場に足を運んで切ってもらう、というのも些か、いや、十二分に図々しいような気がしたのだ。それがたとえ、知らないふりをして房太郎を指名したとしても、きちんと彼の施術に応じた対価を払ったとしても。
房太郎もそんなことを求めていないだろう、とわたしは勝手に考えていたけれど、とある日に、わたしが髪を切りに行こうと携帯を触っている時に彼がわたしの携帯を奪ったのだ。モデル、と言っても完全に通じるひどく長い手で携帯を奪った彼は、「またおんなじとこで切んの」と言って、わたしの携帯を自分の後ろに隠した後で、わたしの髪の毛をさらり、と撫でる。前髪や、毛先、最近少しトーンを落とした髪の色、すべてにゆっくりと視線を滑らせて放った声が、やけにきちんと嫉妬の色に染まっていて、わたしはどう答えたらいいのか分からず、少しだけ黙ってしまった。
少し髪の色を落としたのは、房太郎がその方が似合う、と言ったからだし、彼の意見を無視しているわけではないのだけれど、やはり親密な関係であればあるからこそ、お店に行くのは違うような気がする。明らかに困りきった顔をしていたらしいわたしに、本人はたぶん元から決めていたようで「ここで切ればいいだろ、俺、準備するから」と言ったのだ。
「緊張してきた」
「止めてよ、変な感じにしないでよ」
「しねえよ、一応これが仕事だから」
「そうだった、ごめん」
「でも、やっぱり桐子の髪って思うと特別な感じするな」
本当は軽く髪を梳いて前髪を切って貰おう、と思っていたのだけれど、房太郎が切ってくれる、と言い出したのでわたしは全てを彼に任せることにした。別にお金払うわけじゃないなら好きにしていいよ、と言ったわたしに「……むっず」と言った房太郎は、でもどこか嬉しそうで。彼の仕事を見たことはないけれど、信用はしている、それくらい一緒にいれば分かるのだ。
何度もわたしの髪の毛をさらりさらりと触れてから房太郎が小さく息を吐く。なんでもいい、と確かに言ったけれど、房太郎だしありえないけれど、ばっつりいきなり切ることなんてない、よね。細い櫛を取り出した細い指先、鋏も指先にしっくり馴染んでいるのが横目で見えて、直ぐに安心した。
暑いとあたたかいの中間で、わたしは目を閉じると、「寝るのはだめだぞ」と上から声が降ってくる。
「寝ないよ、ちょっと閉じただけ」
「いきます」
「どーぞ」
「すげえ、桐子の髪だ」
「なにを当たり前のことを」
しゃり、と彼の鋏が縦の形のまま、わたしの後ろの髪を切っていくのが分かる。ぱらぱらと落ちていく髪の毛の量は本当に少なく、多分、軽くするだけのつもりなのだろう。一度鋏を入れるのに躊躇った分、入れてしまえばあとはどうということもない彼はどんどんと手際が良くなってくる。
別段わたしに話しかけることもなく、黙々と大きく開く青色のピンの位置を変えてはわたしの髪を切る。
「伸ばしてるんだったっけ」
「一応、でも房太郎のしたいようにしていいよ」
「んーちょっと短くしていいか、マジでちょっとだけ」
「いいって、信用してるから、あ、前髪は切ってね」
「おう」
少しだけ鋏の音が重く、強く響いて、一、二センチくらいの髪の毛がぱらり、ぱらりと落ちていく。
ここが本当の美容室だったら目の前に大きな鏡があって、そうしたらわたしの髪に触れる房太郎の顔が見られたのだ。そう考えると急に、彼の美容室まで行けばよかったような気さえしてくる。
いつの間にか髪の毛についていたいくつかのピンは最後のひとつになっており、はらり、とそれがなくなった。房太郎の手が外した青色のピンが、腰につけられたシザーケースに収められる。
長さを確認するようにそっと下を見ると、片づけにそこまで困ることのない分量で思わず安堵の声が出た。準備は房太郎がしてくれたので、片付けくらいは手伝おうと思っていたのだ。
「鏡見る?」
「全部終わったらね」
「じゃあ前髪いきま~す」
「どうぞ」
「ちょい短いくらいまでした方が楽だよな」、という声が近くから聞こえる。目を閉じたままのわたしが、「うん」と答えると、彼が鋏を握りなおしたのが分かった。
顔にどうしても降りかかる前髪だった髪に少しのくすぐったさを覚え、唇を緩めたままきゅっと目を瞑る。ちょき、ちょき、と聞こえた鋏の音が、唐突に止み、彼が鋏を仕舞う音がした。瞼を開けようとするわたしを見透かすように、彼が「ちょっと待って」と声をかけてきた。
そういえば、あのチークブラシみたいなもので顔をぱっぱ、と撫でられるのだっけ、と思い出して、顔を触りたい気持ちを我慢して動くのをやめた。予想通り、ブラシが顔をふわふわと柔らかく通過していくけれど、汗ばんでいるせいか、たいして落ちている気がしない。
「房太郎?」
「待って、あと十秒」
「え、でもいいよ、」
「だぁめ」
目を開いて、彼の持っているブラシが一瞬だけ目に入ったあと、すぐに消えた。
かなりやりにくかっただろうな、と思うほど彼の背の大きさを思い出すのは、今まさに中途半端に屈んだ彼がどうしてかわたしの唇を奪っているからだ。
わたしよりも柔らかいと思える唇が、本当にきっちり十秒、くっつくだけくっついて、ゆっくりと離れていく。房太郎に移ることのなかった髪の毛の残骸をわたしは指で払い落しながら、「何してんの」と、どんな風に聞こえるのかわからない声で言ってしまう。怒っているのか、照れているのか、くすぐったいのか、自分でなにも分からないまま、また屈みなおした房太郎が指先でわたしの髪の毛を一緒になって落としてくれた。
「なんか、見てたらしたくなった」
「絶対お店いかない」
「それでいいって、これからもここで切ろ」
「……顔洗ってくる」
「なんで」
「その方が早いでしょ」
「嫌、最後までさして」
房太郎がわたしのケープを片手で取り払って「はい涼しい」と笑うから、椅子を立つことを忘れてしまう。
それから、また中途半端に、腰を痛めそうなほど屈んだ房太郎が、やけに真剣にわたしの前髪の残骸を指先でつまんでは新聞紙に落としていく。彼がわたしの頬に指先が触れていない間に、自分で顔をばっばっと触って残骸を落としたり、手につけたりしてみる。
「もういいんじゃない」
「あともうちょい」
「さっきも聞いた」
「うん」
目の下を、ガラス細工を扱うようにそっと彼がなぞって、本当にきれいに落としたのだ、と鏡を見ていないのにそんな気になった。彼が指先で前髪や毛先を整えるように触って、「かわいい」と笑う。「鏡、待ってな」と、どこからか出そうとした鏡を、手を遮って、「ありがと」と声をかけると、房太郎がちょっと首を傾ける。
「なぁ、これからも前髪だけは家で切らないか」
「なんで」
「なんか無防備な感じの桐子が見れて嬉しい」
「なにそれ。そんなの知らないよ」
「えーいいだろー」
しょうもな、あえて乱雑に言いながら立ち上がると、房太郎は一度背筋を伸ばした後に頬に手を伸ばす。髪の毛がついているのだろうか、と反射的に上げたわたしの右手を反対の手で掴んだ房太郎が、もう一度、先程とは違う形で唇を押し付けてきた。
黄身を割ったようなぬるく暑い光と、房太郎のびっくりするほど大きな手。目を開ける気も起きないまま、彼の唇がゆっくり離れていき、やっと呼吸が楽になり「絶対頼まないからね」とわたしは先にベランダを出る。真っ直ぐに、洗面台に向かう背中に「本当に?」という房太郎の声が追ってきた。綺麗に切られた前髪、髪の残骸の残っていない顔は徐々に赤くなってきている、軽く、数センチ短くなった髪の毛が軽くて心地良い。
どう?と後ろから汗ばんだ身体がわたしを抱きしめて、「セクハラがなければ百点」と答えれば、彼は耳元でちょっとだけ笑い声をあげる。もう房太郎は知っているのだ、二度と頼まない、なんてわたしが思っているはずがないことに。
そして、ベランダで、房太郎が握る鋏の音が、日の光が、存外心地良く、彼に触れられる髪が、いや、わたしが心から満足していることに。