何が言いたかったのかもあやふやで、口に出してはよくわからなくなる。だから喧嘩って苦手だ。自分で自分がわからなくなってしまって、なにがどういう感情を持って、なんとしたかったのか、向こうにだって伝わるはずがない。
夜中ふと目が覚めて、起きたついでにトイレに行った。なんとなく、喉もさほど乾いてはいないのにあの人が置いて行った無糖の炭酸水を冷蔵庫から取り出して飲むと、もうすっかり炭酸は抜けている、ただの水でしかないし当然まずい。冷蔵庫を閉め、暗い中壁に手をついて移動するとだんだんと目が慣れてきた。ベッドに辿り着いて脇に置いてあったスマホのモニターを点けてみると、ニュースの通知に混じって一件のメッセージ。
【寝てる?】
起きてる、じゃないところに愛しさを覚えては、先日の出来事を思い出す。なにが理由だったか。喧嘩とはそういうものだろうけれども、いやそれにしても酷かった。わたし自身がまずわたしの発言を理解できず、よって当然彼も解らず。喧嘩。うーん。わたしの言ったことはほとんど覚えてないけれど、多分、間違ってはいなかったし彼の事を中心に考えていた、それなのに彼は怒った。だからわけがわからなくなってしまった。だって彼の為を思って身を引いたのになぜ。なにが逆鱗に触れたのか。
【おきた】
顔文字だけで返事をしようかと思ったけれど、一応喧嘩中だからやめておく。余計怒らせたくないしなあ。スマホをベッド脇に戻して、シーツの中に身体を滑り込ませた。ぬるいなあ、掛布団をめくってからトイレ行けばよかった。本当なら今この瞬間、あの人の体温であったかくなっている布団にはいるはずだったのに、わたし一人分の体温しかない。くだらない喧嘩を
した罰だろうか、一緒にDVDを見る約束はお互いに仕事へと早変わり。神様は見ている。なんだか世界に一人になった気分だ。いやまあ今現状わたしはひとりなので、わたしの世界はひとりだけで間違ってはいない。
【なにしてるの】
ぱっと部屋が少しだけ明るくなる。通知でスマホの画面がついたひかりが、わたしの惨めな一人の空間を照らす。あの人、こんな時間に何してるんだろう。時間を見れば、あの人がいつも寝る時間を少し越えたくらいだった。
【おきただけ】
【寝ないの?】
テレビで自分が出ている映像を観て、お酒飲んで、ソファーで寝落ちるかベッドに行くかの間際なんだろうか。とにもかくにも、喧嘩していた独特の空気がそこにはあって、言いようの無い緊張がわたしを包んだ。布団が妙に重たいような気もしてきた。ヤだな。すると、なんとなく、寝室のドアが開いた気がして顔を上げた。
「……不法侵入……?」
「一言目がそれなの?」
起き上がって、暗さで見えないとはわかりつつ髪を手櫛で整えると、なんだか大量の荷物をその辺に置いて、それからやけに高そうなジャケットもその辺に、最終的にTシャツとジーンズだけのラフな格好になってベッド脇に座った。腕時計はベッド近くのテーブルに。求めていた温度の堅い手がわたしの頬を掠める。
「鍵かけてても開いたの気付かないの危ないよ」
「いや……うん?」
勝手に入って来たあなたが言う台詞かしらそれ。
とはいえ、深夜勝手に合鍵で入って来た喧嘩中の恋人を目の前になんとすればいいものか。無言のままじっとするわたしを見て、彼は「奥さん」と言った。おくさん……とは。
「今日も旦那さん遅いんでしょ?」
「……そうなんです、あの人、いつもそうよ。仕方ないことなんでしょうけどね、それだけあの人は求められているってことですから、喜ぶべきなんでしょうけど……」
少ししなを作って演技してみせると、少しだけ、動揺した空気が伝わってくる。わたしが本当に言いたかったこと。そう、わたしはこれが言いたくて、けれど言わないでおこうとした。彼が求めていること。用意された台詞のように、人妻を演じてみせた。
「でもわたし、さみしいわ」
「……じゃあ、そんなひどい旦那は放っておいて、僕とどうですか」
「え?」
手がそっと重ねられ、思っていたよりもずっと近い距離に勇作くんがいることをようやく知った。そこで気が付く。彼はわからないわたしに怒っているわけではないことに。何も言おうとしないわたしに怒っている、のだ。
物わかりのいいフリをして彼を傷つけた。でも、それなら、わたしだって、今日勇作くんの出てるDVDを見て、隣を見て、きゃあ本物だ握手してください、って茶番でしかない小芝居がしたかった。
でも仕方ないって思うでしょう、あなたはわたしだけのものにはならないのに。だから名目だけわたしのものだ、ってそう思うことにしていて。けれど勇作くんは、わたしがそう思ってることを知っていてなお不満に感じているようだった。
「今だけ、全部あげるから、僕のことちゃんと見て」
その言葉の真意が解らないわけではなくて、委ねられた熱をそっと受け止める。
彼を彼として見ないのは、いつだってわたしのほうだ。今ここでわたしを愛す彼は、公人としてのすべてを脱ぎ捨ててただの花沢勇作になる。そして勇作くんは、なにもわからないわたしをそのまま全部愛してくれるだろう。わたしは同じ熱量をもってそれを返すことが許されたのだ。
今だけじゃない、ずっと、そうだった。わたしたちふたりだけのときは、いつだって世界にわたしたちしかいないはずだった。
妻を構わない旦那はいないし、深夜に自分が出ている映像を繰り返し見ては寝る彼もいない。夜中勝手に忍び込んで、たったひとりの人間だけを愛してくれる、彼だけがわたしの彼だ。