大学を卒業して一般企業に就職し、社会人になって二年目の秋に、高校時代の友人からハガキが届いた。どうやら、あのとき同じクラスだった二人が結婚するらしい。そういえば当時から付き合っていて仲が良く、みんなから夫婦と揶揄われていた二人組がいたと思い至る。そうかわたしたちはもう結婚するような年齢になったのか、と感慨深くなりつつも、勿論断る理由もなくわたしはハガキに印字された参加の二文字に丁寧なマルをつけた。
「ゆかり、久しぶりー!元気だった?」
「うわ、卒業以来だね。元気だったよー。そっちは?」
「元気、元気!」
結婚式の後日に開かれたパーティーは、半分同窓会のようだった。垢抜けたと評するのが良いか悪いかは置いておいて、パーティードレスやスーツに身を飾り立てた同級生と再会して当時のことを懐かしむと同時に、化粧や髪型が変わるだけでここまでの変貌を遂げるのか、とかつての旧友を見て思う。
「ゆかり、大人っぽくなった!いつもショートカットのイメージだったけど、髪伸ばしたんだね」
「うん、もうスポーティーは卒業かなって」
「そろそろ年齢的にキツくなることもでてきたよねー。このままどんどん三十路に近づいていくかと思うと怖い!」
仲の良かった友人たちと話していると、ざわり、と入り口の近くがにわかに騒がしくなる。新郎新婦は反対側の上座付近にいるし、誰が来たのだろうかと首を傾げるわたしを見て友人が僅かに呆れたように苦笑した。
「ゆかり、ニュースとか見てないの」
「え?」
「ほら、花沢勇作くん。覚えてない?お父さんが歌舞伎の……なんて言ったっけ、重鎮みたいな人でさ。花沢くんはモデル兼俳優になって、今度ドラマにも出るんだって。それで一躍有名人になったから、みんなで群がってんのよ」
花沢勇作。その名前を聞いた瞬間に、胸の奥がひどくざわついた。途端に呼吸がままならなくなって、ひくり、と喉の奥が苦しくなる。今となっては忘れていたはずの、けれど確かに知っている、なにかが身体の奥からせり上がってくる、いやな感覚。わたしは周りに気づかれないよう静かに深呼吸をした。
「わたしたちも行ってみる?」
「……あー、わたしは別に、いいかな……」
「ふうん、ゆかりはそういうの興味なかったっけ?でも花沢くんてカッコいいし頭も良かったし、昔から人気者だったよね」
「そう、なんだ」
どうしよう、胃の辺りが気持ち悪くなってきた。もはや飲む気にもなれず手にしていたシャンパングラスを静かにテーブルに置く。椅子に座って少し休もう、と思ったとき、タイミング悪く誰かに名前を呼ばれた。
「萩谷じゃん、久しぶりだなー。今何してんの?」
話し掛けてきたのはクラスのムードメーカーだった男子で、いわゆる陽キャに分類されるであろう彼と話し始めてしまえば話が長くなることが容易に想像できた。神様の意地悪、と意味もなく天を呪いながら、わたしは口の端が引き攣っていることを自覚しつつも無理矢理笑顔を作る。
「……久しぶり。ただのOLだよ」
「OLいいじゃん!でも結構大変なんじゃない?」
「まあ、それなりにね。そっちは何してるの?」
「俺は地元の整備工場で働いてる。ほら、俺あんま頭良くなかったし、大学にも進まなかったからさ」
へえ、と当たり障りのない相槌をうつ。誰か人気者だった彼に声を掛けてくれ、そしてわたしの前から早いとこいなくなってくれ。そう願いながら、みぞおちあたりにぐっと力を入れて込み上げる微かな嘔吐感に耐える。
「おーい!」
願いが聞き届けられたのか、不意に誰かが彼のことを呼んだ。これでトイレに行ける、と思ったのも束の間、次の瞬間には顔が真っ青になった。神様はそこまで優しくはないらしい。
「おー、花沢!久しぶりー」
「な、有名人になっちゃってさー」
「そんなんじゃないよ」
今、話していた彼と仲が良かった男子に連れてこられたのは噂の花沢くんだった。スーツを着て、精悍な顔立ちや雰囲気はそのままに、あの頃よりぐっと大人びた花沢くんが一歩二歩とこちらへ近づいてくる。わたしは爪が食い込むのも構わずぐっと手を握り締めた。
「お、萩谷もいる!めっちゃ久しぶりじゃね?」
「久しぶりー」
花沢くんの視線がわたしへ向く。その瞳がわたしのことを捉えた。
「萩谷さん、久しぶり」
その口が、わたしの名前を紡ぐ。もう限界だった。
「……ご、めん、わたし、体調悪くなっちゃった」
視線を逸らし、逃げるように踵を返すと会場を飛び出した。押し開けた扉から廊下に出てすぐのトイレに駆け込む。もう、喉元まで来ていた。
「うっ……!」
個室に入ってドアの鍵を閉めた瞬間、耐えきれず吐き出した。むせ返るようなフリージアの香りが広がる。とっくに忘れたと思っていたのに、何年ぶりになるだろう。わたしはまた、花を吐いてしまった。
どうして予想していなかったのだろうか。高校時代の同級生らが参列しているということは、彼だってパーティーに呼ばれるのは当たり前だ。忙しいとはいえ来る可能性は十分にあったし、彼に会ったなら、また再発してしまうことは明らかだったのに。次から次へと吐き出されるピンク色にうんざりしてしまう。ずっと会えていなかった分、彼の姿を一目見れただけでも本当に嬉しかったのだ。それが、こんなにも苦しいだなんて。せり上がってくる止まらない吐き気に、ぽろぽろと涙も一緒に零れてきた。
それから何分経ったかは分からない。ようやく落ち着いて呼吸を整えると、今度は便器の中からも溢れて散らばる自分の吐いた花を片付けなければいけなかった。すべてを流すのには随分と時間が掛かってしまうだろうけれども、匂いの強いこの花をゴミ箱に棄てるわけにもいかないし、うっかり誰かが触れてしまわないようにするには、そうするしかない。こんなに辛くても、知らない他の誰かが罹患する危険性も考慮しなければいけない神経質さにため息を吐いた。もう、嫌になってしまう。
ようやく片付け終えて個室を出ると、手洗い場で雑に口元をゆすいだ。それでも気持ち悪さは消えないし、甘い花の香りもまだからだじゅうに纏わりついている。今日はもう、このまま帰ってしまおうか。
「大丈夫?」
ぼんやりと考えながらトイレを出たところで声を掛けられて、わたしは足を止める。驚いて、心臓が凍るかと思った。
「迷惑だったらごめん。でも心配で」
数メートル離れた壁に寄り掛かっていた花沢くんは申し訳なさそうに眉を下げると、近づいてきてわたしの顔を覗き込む。ずっと大好きだった顔を近づけられて、わたしはとてもじゃないけど視線を合わせていられなかった。どうしているの、と心の中で喚く。
「体調悪かったの?」
「……あー、えっと、途中から気持ち悪くなっちゃって。だから今日はもう、帰ろうかな」
「そっか、そうした方が良いかもね。でも本当に大丈夫?」
心配してくれるのはありがたい、けれど、花沢くんがいると大丈夫じゃない。わたしは曖昧に笑って、彼から逃げるように背を向けて歩き出した。
「ねえ、花の甘い香りがしない?」
今度こそ本当に心臓が止まるかと思った。自分でもはっきり、血の気が引いたのがよくわかった。身体が固まって、ひゅう、と喉の奥から微かな息が漏れる。嘘みたいに体温が下がって、そっと左手で拳を握ったらその手は死人のそれかと猜疑するほどに冷えていた。
「もしかして、萩谷さん……」
やめて、それ以上は言わないで。この場から逃げ出したいのに、身体がまるで言うことを聞かない。
「花を、吐いた?」
一巻の終わりだ、と思った。わたしはその場にしゃがみ込むと、二人しかいない廊下にフリージアの花を吐き出した。