初めて鍵を開けた始まりのあの日を今でもまだ覚えている。
 キッチン、リビング、と書かれた段ボールを、器用にガムテープで閉じていく。今日の今日まで、いや、今日になっても、彼女がこの家を出ていく実感は湧かない。数週間ぶりに一緒に囲んだ食卓で、彼女は、お醤油とって、とほぼ同じトーンで、転勤決まった、と言った。どこに、北海道、いつから、来月、いつ決まったの、先週。尋問のように繰り出される質問に、彼女は箸を止めることなく淡々と答える。僕は、なんですぐ言ってくれなかったの、と彼女を責めたけれど、忙しそうだったから、と張り付けたような笑顔を向けられて、何も返すことができなかった。その時の会話はそれきりで、あっけなく緞帳は下がっていった。いつの間にか、彼女は気持ちをごまかすのが上手くなって、僕は気持ちを汲み取るのが下手くそになっていた。それらが全部情けなく感じて、まるで笑えない茶番のようだった。

「これで最後」
「うん、」
「広くなったー」
「……お疲れさま」

 最後の荷物を詰めた段ボールを彼女が運んできて、僕はその荷物をガムテープで閉じる。その作業は思い出に蓋をするみたいであまり愉快なものではなかった。本当は伝えたいことも、伝えなければいけないことも、たくさんあったはずなのに、今は何も口からついて出てこない。会えない距離じゃないから、と言葉にした途端、それは本当に会えない距離になる気がした。今はどんな言葉も適切ではないと思ってしまう。僕の内心の忸怩たる感情を知らぬかのように、彼女はアルコール入りのウェットシートで壁を掃除しながら、途中で見つけたらしい傷を撫でて、酷く穏やかな顔をしている。

「これ怒られちゃうかな」
「……それくらいなら大丈夫じゃないかな」
「勇作くん、これ覚えてる?」
「……佳澄さんが僕に投げたリモコンが当たった傷」
「覚えてるねー」
「そりゃ覚えてるよ」
「やっぱ根に持ってたかー」
「持ってないからね」

 あの時の佳澄さん本当にこわかったよ、と伝えると、懐かしいね、と小さく笑う。なんとなく、なんとなくだけど、彼女が今までの全部を思い出みたいに、もう全部終わったことみたいに話している気がして、僕は嫌だった。今までさんざんドラマで言ってきたような、小説で書いたような台詞はいくらでも出てくるのに、やっぱり彼女にかけるべき正しい言葉は見つからない。絶対的な約束は、言葉では交わせない、そんな気がしていた。彼女は一人で何処かへ行けない子どもではないし、僕は彼女を簡単に繋ぎ留めておけるほど大人でもない。ただ、それだけだ。

「勇作くん」
「うん、」
「今までいっぱいごめんね」
「……なにが?」
「邪魔したり、怒らせたり、困らせたり、」
「またそういうこと言う」
「じゃあ、今までいっぱいありがとう」

 彼女は困ったように笑って、段ボール以外なにもなくなった部屋をぐるりと見渡した。小さいけれど、思い出がたくさん詰まった部屋。あと少しで、引越し業者がここにやってくるだろう。カーテンの外された窓から、オレンジ色の夕日が差し込んで、彼女の横顔を照らしている。光の加減で彼女の目元が光って、泣いているようにも見えた。ドラマよりもドラマチックで、小説より小説的なその横顔が、消えてしまうのが惜しくて、気がつけば僕は彼女を抱きしめていた。

「……勇作くん、痛いよ」
「ちょっとだけ我慢して、」
「こんなんじゃさよならできないよ、」
「さよならなんてしないから」
「だって、」
「離れても、離したりしないから、」

 なにそれ、と、僕の胸の中で弱々しく、くぐもった声を出す。僕もわかんないよ、わかんないけど、そのままの意味だよ。そう言うと、彼女は安堵したようにそっと息をついて僕の背中に腕を回した。
 この愛は確かにあったのだと、せめて、せめて忘れないでいて欲しい。僕らはひとつにはなれないけれど、ふたつだけでいることは、きっとできる。大丈夫。根拠のない自信が、ふつふつと部屋の空気と混ざり合っていく。今の僕の気持ちも、段ボールに詰めて一緒に持っていってくれればいいのに、と出来もしないことを少し願った。