こういうときだけ、同じ方向を見ている。洗濯物の畳み方が気に入らないだとか、お風呂の温度が低過ぎるだとか、今まで些細なことであんなに口喧嘩して、彼の意見にあんなに反論していたのに。
 わたしは、珍しくも真剣な面持ちで吐き出した時重くんの言葉をすんなりと、否定せずに受け入れた。この気持ちは冷めたわけじゃなくて落ち着いただけと思っていたけれど、勘違いだったんだろうか。言葉を噛み砕いて飲み込んで、それでも悲しみに埋もれなかったのは、この関係が続くことが不毛だと心のどこかで気付いていたからだろうか。
 恋の結末は案外、あっけなかった。

「時重くんって浮気したことある?」

 あれから数日、何度か自分の家と彼の部屋とを往復して荷物を取りに行った。でも、それも今日で終わり。最後に合鍵をドアポストから入れてすぐに去ろうと思っていたら、ちょうど仕事を終えて帰宅した時重くんと鉢合わせた。慌てて帰るほど気まずい雰囲気でもないので、彼に言われるがまま中へ戻って冷蔵庫にあった缶ビールを一本ほど拝借した。好きな銘柄の缶ビールを慎重にグラスに注いで一口飲んだらこの上ない笑顔。今日もお疲れ、と隣で思うこの瞬間がすごく幸せだった。

「何で?」

 彼が笑いながら訊いてくる。片手にはグラスを持ったまま。わたしも大袈裟に笑って、またアルコールを身体に流し込んだ。

「最後だし、教えてくれるかなって」
「お前と付き合ってる間は無かったよ」
「え、本当に?」
「当たり前でしょ」

 もし、その言葉が彼なりの優しさであっても、確かに嬉しかった。何度も不安に襲われていたことも、時重くんを疑ってしまっていた部分も正直否定はできないけれど、その一言に救われた気がした。良かったー!とめいっぱい明るく振舞って、目の前に座る彼を見る。
 温厚に見える顔つきとは裏腹に普段から割と粗暴な時重くんは、想像できないくらいに丁寧なキスをする。恥ずかしくなってしまうくらいに丁寧なキスをして、興味本位でそれまでの経験を正してしまいたくなるほどに巧妙なセックスをする。普段から粗暴で、家具を傷つけたり電化製品を壊したりすることの多い彼がわたしに触れるときだけに見せる柔らかな手付きこそが愛されているあかしだと優越に浸っていたというのに、自惚れが過ぎたと言うのか。

「楽しかったなー、時重くんと居るの」
「……ああ、うん、僕も」
「え、なんで今日そんな素直なの?」

 気持ち悪い!と、アルコールのせいでフワフワした気持ちのまま言えば、時重くんはテーブルに頬杖を突いて目を細めた。まるで、明日もこれからも、こんな関係が続くみたい。終わりなんて知らないと、そう思っていたのに。

佳澄に新しい彼氏できたら」
「うん?」
「僕が実際会って、品定めしないとね」

 そいつに、佳澄をちゃんと任せられるか、見ときたい。そう言う時重くんにわたしはすかさず、保護者だ!と茶化したけれど胸が熱くなったのだけは気付いていた。飲みかけの缶ビールで間接キスだと大袈裟にはしゃいだりだとか、よく冷えたグラスを躊躇なく彼の頬に当てたりだとか、もう二度と、そんなことはできない。

「……じゃあ、時重くんに、彼女ができたら、さ」
「僕に彼女ができたら?」
「絶対その子のこと、幸せにしてあげてね」

 こう思ってるのは半分本当で、半分は皮肉だったのかもしれない。そこに部屋の雰囲気にそぐわない無機質な音が響き渡る。時重くんの携帯端末が鳴っていることに気付いたわたしは、グラスの中にあったビールを一気に飲み干して急いで立ち上がった。問答無用で出ないということは鶴見さんではないのだろうけれど、それでも、電話に出る彼の声を聞きたくないと思ってしまった。
 荷物もあるし駅まで送る、と時重くんは言ってくれたけど、そこまでか弱くないから!と笑いながら断った。最寄り駅までとはいえ、彼とふたり並んで歩くのなんて今のわたしには無理だ。絶対に会話が保たないだろうし、なにより心が耐えられないと思った。

「ほら、早く電話出ないと切れちゃうよ!」
「……ああ、じゃあ」
「うん!じゃあね!」
佳澄
「ん?」
「ごめんね」
「……やだな、らしくないこと言わないでよ!じゃあ、もう、本当に、ばいばい」

 返事を聞く前に、背中を向けて部屋を後にした。彼の瞳に映ったわたしは、どんな顔をしていたのだろう。最後くらい、彼女らしく、可愛らしく笑えていただろうか。
 本当はまだ言いたいことや話したいことがたくさんあった。ごめんなんて陳腐な謝罪よりも聞きたい言葉はいくつもあったって、最後の謝罪はわたしのセリフだって、こんな結末でもわたしは幸せだったって。
 時重くんに自信を持って会わせられるような男性なんてこの先現れる気がしないことも、わたしは時重くんの新しい恋人には会いたくないと思ったことも。
 新しい恋人に対して、時重くんはどんな顔を向けるのだろうか。どんな表情をするのだろうか。彼の敬愛する鶴見さんよりも優先してもらえるのだろうか。知る由もない話だ。わたしは結局、最後まで鶴見さんにすら勝てなかったと思ってしまう。こんなこと自覚したくはなかったけれど、所詮わたしはその程度だったのだ。
 彼の部屋から一歩ずつ離れて行く。前へ進むために。このまま一歩ずつ一秒ずつ進むごとに思い出も風化していくのだろうか。たった今まで、ひたすら我慢していた分だけ、涙が溢れてきた。
 時重くんしかいなかった。時重くんしかいらなかった。彼さえいればもう、他には何もいらないとさえ思っていた。この想いは冷めてなんかない。ずっと、ずっと好きだった。けれど、ここに来ることは二度とない。
 駅へと続く見慣れた街並みの中をひとりで進みながら、後ろ髪を引く感情のせいで目頭が痛む。
 けれど、この痛みもいつか忘れるだろう。