ふたりでたくさん話し合った。たとえ日付が変わっても、朝まで結論が出なくても。そうして、終わりに向かっているのはこの恋なんだと気付いたとき、わたしは誰にも気付かれないよう静かに深呼吸をした。
向かい合って座り、真正面から彼の顔を見る。良く言えば落ち着いたし、悪く言えば老けたと思う。肌ツヤにしたって、何気ない仕草ひとつ取ったってそう。もちろん人のことばかり言える立場ではないけれど。
出会ったあの頃より間違いなく、未来のことを真剣に考えるようになったのは事実だった、彼も、わたしも。彼のことが好きかと訊かれたら自信を持ってそれは当然と頷けるし、これからも絶対に変わらない、大切な人だろう。わたしも、彼にとってそういう存在であったなら良いと思っている。けれど、若かった当時みたいにただ好きという軽率な気持ちだけで、もう恋愛はできなかった。
「……なんかさ、歳とったよね」
「私も、それを今考えていたところだよ」
「やっぱわたしも老けた?」
ワザとらしく、にっこりと笑って頬に手を当てた。長らく一緒に居たら思考回路さえ同じになってしまうのか。それすらも、今はどんな感情で受け止めたらいいか分からない。不健康に、そして不快に長い間騒ぎ立てていた心臓は今や普段通り穏やかに鼓動している。当事者となっても案外冷静に振舞えるものだ。
「心の準備する期間、ちょっとだけ、ちょっとでいいから、ちょうだい」
別れよう、と先に切り出したのは彼からだった。辛うじて是を返したわたしの声は、しかし平静を装うことすらできずに震えていた。
未来を長い目で見据えたとき、添い遂げるのはこの人ではないのかもしれないと、彼もいつからか心のどこかで引っ掛かっていたのだろうか。
「一週間だけ、それで、うん、もう」
喉がカラカラに渇いて、怖くて、続く言葉が出てこなかった。気分はローラーコースターのように真っ逆様に落っこちて浮上する気配はない。いっそ笑けてしまいそうだ。
一週間後にまた篤四郎さんの部屋を訪ねて、食器棚にあるコンビニでもらったお皿だとかリビングのテレビ台にあるお気に入りの猫の置物だとか、私物を全て持ち帰って、きちんとすっぱり、別れるつもりだった。
「……ああ、分かった」
けれど彼の仕事のスケジュールとわたしの予定が合わなかったり都合が悪かったりでなかなか時間を取ることができずに、結局会えたのは二週間後の日曜日になってしまった。
お邪魔します、小さくこぼして彼の部屋のドアを開けて、隅に大きなボストンバッグを下ろす。悩んだけれど、これで入りきるだろうか。わたしの影を残さないように、些細な思い出を、ただのひとつも落とさずに持ち帰れるように。座り慣れたソファの、彼の隣に座る。この匂いも、その優しい眼差しも、既に懐かしく思えてしまっている。
「……あっという間だった」
「この二週間?」
違うよ、篤四郎さんと出会ってから、今まで。とは言わなかった。たった数センチ、それだけ、いつもより遠くに座るよそよそしい彼の行動の逐一が悲しくて、なにか言うよりも先に涙が出ていた。ゆっくりとまぶたを落としたら、ぼろぼろと我慢しきれずに溢れてくる。
「……別れたくない」
未練でも愛着でも執着でも、なんでもよかった。純愛じゃなくても、たとえ、この感情がもう恋ではなくて、別物に変容していたとしてもわたしは彼と居たかった。
なんて、愚かしいことだろうか。
彼を一番愛しく思う事実をないがしろにしたそのとき、変わらないと思っていた自分は変わってしまった。そして、よく知っているはずの彼はもう知らないひとになっている。
「うん」
「やだ、別れたくない」
「……うん」
彼から強く抱きしめられるのも、これで最後。初めてキスをしたときの体温も、密かに期待しながら帰りたくないと言ったあの夜のときめきも、わたしの心と身体は絶対に覚えているはずなのに、もう蘇ることはない。
これ以上のものはないとだいじにだいじに両腕で抱えていたものは呆気なく朽ちていく。ばかばかしい。ばかばかしいくせに、凄惨だ。
「……すまない」
声を聞いただけで、彼も僅かに涙ぐんでいるであろうことが分かった。それでも今のわたしには、その泣き顔を見上げることすらできそうにない。欲しいのは謝罪じゃなくて同じ思いだったなんて、同じ言葉だなんて、いつも、彼を困らせてばかりだった。
都合の悪い景色には目を瞑って、都合の良い期待に勝手に胸を躍らせて、結局、もう、なにもかもが違うのだ。趣味嗜好が同じでも、口癖が同じでも、昔と同じにおいがしても、彼はもう知らないひとだ。わたしが知っていた鶴見篤四郎とは別人だ。もう、知った気になって、やっぱり、まだ、だなんて言えやしないのだ。
「佳澄、顔を上げて」
「無理だよ。目、腫れてるし」
「大丈夫」
最後くらい可愛い顔でいたかった。笑顔で別れるのは無理だとしても、意地らしく強がって、平気だと言い張りたかった。
二人の間に横たわる歳月が払われる。そしてまた降り積もる。彼はそれを忘れない。忘れるまでもなく、気に留めないのだ。わたしばかりがその光景を前に立ちすくむのだ。いつか、忘れていたものものへの後悔を重ねて。
「篤四郎さん、好き。好きだった、よ」
「……ああ。私も、愛していた」
愛しているだなんてこれまで一度も言ったことのないくせに、なんて巧妙に知恵の回るひとだろうかと悔しくなってしまう。けれども涙はついに頬に零れた。疑いを携えたままの恋愛をするだなんてばかげている。ばかげているというのに、わたしたちは揃ってそれを望んでいた。
まぶたに優しく落とされたキスは熱くて、またわたしを泣かせる要因になる。篤四郎さんもわたしが好きなら、ねえ、どうして、離ればなれになる未来を拒んでくれないの。どんなにたくさん話し合ったって、彼の意見を聞いたって、快く納得できないことはあって。その僅かな気持ちのズレが縁取られたように際立って、大事な場面で、ふたりの足並みは揃わなかった。もう、どうしようもない。
何度好きだと伝えたって、返してくれたって、一番欲しい言葉は聞こえない。どんなに泣いたって、願ったって、あの日の気持ちは、もう、一生戻ってきてはくれない。