「別れましょうか」

 彼女の真っ直ぐな声が、瞳が、今でも鋭く胸に刺さっている。
 ゆっくりでいいから、考えて欲しいんです。その言葉に続くのは、よもやハッピーエンドかと思っていた部分も否定出来なくて、少しの間混乱に陥った。は?と動揺しながら訊き返した俺を前にしても、彼女に未だ揺らぎは見えなかった。

「……わたしは、そのつもりだから、月島さんにも考えて欲しいんです」

 この感情は、怒りではない。それでも彼女から言われて俺は、いつもこうだ、と思った。いつもいつも大事なことを相談もせず自分一人で決めてしまって、結果だけを俺に突きつけてくる。そんなに俺は彼女にとって頼りない存在だったのだろうか。頼る価値も見出せないような男だったのだろうか。恋人という名前の付く間柄の割に、助けを求められることが極端に少ない気はしていた。

「……どうした突然?理由は?」
「突然じゃないです。ずっと、考えてました」
「理由は?」

 焦って、冷たく問い詰めるような訊き方になってしまった。はっとしてすぐに謝ったけれど、明らかに雰囲気は悪くなって、沈黙。冗談であって欲しいと内心は思っていた。意を決したように顔を上げた彼女が、思いを伝えようと口を開いた。弱々しい声が、つらそうな表情が、全部嘘だったらいいのにと思う程には。

「……地元に帰ろうと思って」

 ぽつりぽつり、こぼすのは言葉だけなのに、その裏にある彼女の苦悩や多くの思いが垣間見えて息が詰まる。言っていることと表情がまるで裏腹じゃないかと思うけれど、それでも彼女の決意は固くて俺なんかには砕けないのだと、それだけはすぐに分かった。

「……いつ帰るかは決めてるのか」
「来月中にはって、思ってて」

 ほら、やっぱり俺にはもう選択肢なんて残されていない。それならばゆっくり考えて欲しいなんて希望を持たせるようなことを言わないで欲しいし、ばっさり切り捨ててくれとも思う。そもそも、ゆっくりでも今すぐでも考えてみた時点で俺の出す答えは一つしかないと彼女は分かっているだろうか。自分だけで勝手に決めてしまったくせに今更、ごめん、なんて言われたって、泣き出しそうな顔をされたって、俺だってどうしたらいいか分からない。

「今日は、その話をするつもりで来たわけか」

 彼女は、深く頷いた。結局その日の俺は、そうか、と小さく溢しただけで他に何も言えなかった。彼女が、今日は帰るね、と言いづらそうに吐き出すまで目を見ることすら出来なかった。頭の中がこんがらがっていたのもある、けれども、素直な思いを口にしたら彼女がどんな表情をするか、何を思うか、考えてみただけで怖くなった。
 数日後、俺は彼女を部屋に呼んでいた。文字だけで伝える心に秘めた気持ちが届いてしまうことはない連絡手段をこんなにありがたく、歯痒く思ったことは今まで無かった。指先はいとも簡単に彼女の意思を受け入れる言葉を送信していた。迷いや後悔がどんなにあったって、俺の思いはそこまで彼女に伝わることはない。

「……月島さんの部屋って、趣があるなって」

 ずっと思ってました、と彼女は続けた。目を細める横顔を“恋人”として見るのは今日で最後なのかと、ぼんやりと考える。

「まさかそれはおしゃれって意味か?」
「うーん、わたしの中で、オシャレとはまた違って……」

 でも、わたしは、すごく好きだったな。そう言って微笑む、どこか寂しげな表情に苦しくなった。

「すまん」
「どうして?」

 彼女は俺が謝った意図が本当に分かっていなかったようで首を傾げたけれど、それを正直に伝えるのは、あまりに自分が惨めだった。彼女の恋人として頼れる存在になれなかったことも、こんな状況になっても「ずっと隣に居て欲しい」と覚悟を持って言えないことも、恋人として、男として情けない。好きだという気持ちは確かにあるのに、それだけで、自分の気持ちだけで彼女を引き止めていいのか、自信が持てなかった。

「謝るのは、わたしの方」

 左手に控えめに触れてくる指先の熱を、無くさないよう、迷いながらゆっくりと繋いだ。

「わたしって、どんな彼女でした?」
「は?」
「可愛くなかったでしょ。わがままだし、冷たいし全然甘えないし。ダメだなってずっと思ってたんです」

 でも、と俯いて彼女は続けた。

「本当は、月島さんのこと、すごく好きだったから、なかなか素直になれなかった。月島さんはしっかりした大人のひとだから、困らせたくなかったのと、全部を見せて嫌われるのが怖かったんです」

 今日、最後になるならばすべて伝えようと思っていた。一人で何もかも決めないで欲しかったことも、ちゃんとふたりで分かち合って、話し合って答えを出したかったことも、感情に任せて吐き出そうと思っていた。けれど痛々しく赤らんだ目許を見たら、繋がれていた手の力が強まったら、やっぱりこの気持ちには勝てないと思う。

「……可愛かった」
「え?」
「誰より一番、ずっと、お前は可愛かったよ」

 柄にもないことを自覚したうえで、それでも自分で言っていて恥ずかしくなった。本当に彼女を好きだったんだと思う、愛していたんだと思う。何を考えているか掴めないところも、かと思えば子どもみたいに純粋なところも。

「大切、だった」

 キスしようと思って、彼女を見た。開いた距離を埋めるように近付くと、察した彼女が拒むように俺の胸に飛び込んで来た。

「……キス、しないでください」
「は」
「わたしの、最後のわがまま」
「何で」
「月島さんのこと、忘れられなくなるから」

 その声色が泣きそうになっていることに気付いて、ぐっと堪えた。彼女の背中に腕を回して、分かった、としぶしぶ返す。

「でも、月島さんは、わたしのこと、早く忘れてくださいね」

 その声はあまりに小さくて、空耳だったのかもしれない。彼女の心の奥底にあった思いだったのかもしれない。最後のわがままだと、自分でさっき言ったばかりなのに、一体どこまでわがままなんだ。どうせ最後にはいなくなるのならば、温もりだけ置いて帰らないで、この痛みごと連れ去って行って欲しかった。
 悪いけれど、彼女の願いは暫く聞き入れられそうにない。頼むから、今までありがとう、なんてそんなことを涙声で言うなよ。