近所のコンビニで夕食を買って帰るとアパートの脇にコスモスが咲いていた。秋に花を咲かせるその花の花言葉はどんなものだっただろうか、と俺は考えた。郵便受けの中から勝手に放りこまれている広告やら公共料金の請求書やらをひとまとめに引っ掴んで取り出して、足音が響いてしまう階段をなるべく音を立てないようにと注意深く上り、一番端に位置する部屋まで歩くさなかずっと重箱の隅を突くような心持で頭の中の引き出しを隅々まで探ってみたけれど、コスモスの花言葉は終ぞ思い出すことができなかった。
 それを教えられたのは三年前の丁度この時期のことだった。当時このアパートで共に生活していた彼女はすべやかな花弁を指先で潰すように撫でてコスモスの花言葉について熱弁していた。元々よく喋る女だったけれどもこの花が好きだと前置きした彼女はいつにも増してよく喋った。確かコスモスは多彩な花で、色によって花言葉も違うのだとかなんだとか言っていたような気がする。愛だとか恋だとか、いかにも女が好みそうな清楚で夢見がちな言葉の数々をなぜか彼女はへらへらと話していた。三年も前のことだと言うのに彼女の声が耳朶に張り付いている。彼女がどういう発声をして、どういうふうに呼吸をするのか、その逐一をこんなにも鮮明に覚えているというのにその声が語っていた内容だけが思い出せない。こういうところに愛想を尽かされたのだと自身の欠点に妙な諦めを感じながら、ビニール袋から取り出したコンビニ弁当を電子レンジの中に放り込んだ。

 二年前の夏の終わりに彼女は俺の元を去った。たった一度の過ちを、けれど彼女は「たった一度」と許さなかった。学生の頃から続いた恋人関係は社会人ともなると惰性でも成立するようになっていた。それが一体どれほど奇跡的な内容を含んでいるか、吟味しないまま勝手な退屈に心を食われて甘美な誘いに乗ってしまった。覚えのない領収書を前に呆然とする彼女には魔が差しただなんて体の良い言い訳はまるで届かなかった。元来こと人間関係に於いては決して器用とは言えない自分に浮気紛いの芸当などできるわけがなかったのだと悟ったときには彼女はすべてを知っていた。
 よく喋って、よく笑って、よく怒る、起伏の激しい感情がすぐに表に出る彼女のことだからてっきりこの世の終わりのような顔をして憤慨して、ありとあらゆる手段で糾弾するものだとばかり思っていたけれども、恋人の不貞を目の当たりにした彼女はそれまでに見せたことのない顔をしてじっと俺の瞳を見つめていた。哀れみと愛しさが綯い交ぜになった彼女の目は今でも忘れることができない。結局彼女は俺の咎の一切を責めることなくこの部屋を出て行ってそれきりだ。エゴに塗れたどうしようもない恋人に呆れて声も出なかったとばかり思っていたけれども、今になって思えばそれは彼女の背伸びに他ならなかった。
 惰性で寄り添っているような気になっていた日々のことはなぜだかうまく思い出せない。その驕りは今となっては疑わしい紛い物でしかなくなった。天文学的な数字で彼女と出会い、戸惑いを孕んで迷惑そうに眉を潜めてばかりいた彼女を誑し込もうと馬鹿みたいにお前が欲しいとお前が必要だと陳腐な口説き文句を繰り返し告げていた日々の方がなぜだかより鮮明に思い出すことができるのだった。ひとがひとを好きになる理由だなんて知ったことではないけれども、彼女と出会ったことでその答えは確かに解明の寸前だった。今となってはそれも遠い過去の産物であって、頭からつま先まで彼女への愛で満たされていた筈のこの身体には今や間に合わせとばかりに後悔ばかりが詰め込まれている。

 すっかり古くなってもタイマーベルの音量だけは以前と変わらぬ働きを見せる電子レンジからコンビニ弁当を取り出して、缶ビールと一緒に食卓に並べて席に着けば一人で使うにしては立派なテーブルが彼女の代わりに己の不甲斐なさを責め立てているようだった。料理は好きではないと文句を言いながらも彼女が毎日用意する夕食を並べるにはこのテーブルは些か小さいと思っていたのにコンビニ弁当と缶ビール一本では粗末が過ぎる。コンビニ弁当は贅沢を言わなければ生命維持に過不足ない程度には美味しいけれど、それでも彼女が用意する夕食とは何もかもが比べものにならない。
 彼女が出て行ってもう二年も経過しているというのになぜだか今日はひどく感傷的な気分だ。アパートの脇に咲いた花がそういう気分にさせているのかもしれない。人工的な味のする白米を咀嚼しながら彼女が残していったものものを胸のうちで数えて広げればテーブルの上はあっという間にいっぱいになって甘美な思い出は足元にまで零れるほどだ。
 彼女が好きだと言った花の花言葉はなんと言っただろうか。あんなにも熱弁していた彼女の声が思い出せない。生活から失ったことで漸くその価値に気付いた彼女が齎した全てのものものを忘れたくないと強く願っても彼女の記憶は日々段々と薄れていくようだ。そもそも、彼女が己に見出していた価値が思い出せない。彼女は俺のどこを美徳だと褒めただろうか。思い出せない。
 彼女の全てを把握していたいと、己の全てを把握してほしいと願った日々は遠い。いつか、彼女の名前すら忘れてしまうのだろうか。



 確かめるように舌に乗せた名前に当然のことながら返事はない。かつて舌に慣れていた彼女の名前は既に知らない人間のそれのようだ。
 なんだかひどく乱暴な気分になって喉を逸らしてビールを飲むと途端に胸焼けがした。あの花が咲くたびにこんな思いをさせられたのでは堪らないとは思うけれども、この傷心がなくなっては彼女のあかしが消えてしまう。それを知っているから未だにこの部屋で足踏みを続けているのだ。
 それでも、と俺は舌の端を噛む。足元に転がる甘美な思い出の数々に、まだ別れは告げられそうにない。