湯気の立ち上るコーヒーカップに口をつけたらびりっと舌がしびれた。たぶん、火傷した。コーヒーを飲むのは毎朝の日課で、淹れたてのコーヒーに口をつけて火傷するだなんて失態は長らく味わっていなかっただけに、体内に巣食う動揺をありありと自覚してしまった。
 仕方がない。日曜の朝に相応しくない挨拶をされたなら動揺もする。さよなら、だなんて。
 食卓に着いた彼女は暗い顔で俯いて、テーブルの縁に掛けた自身の指先をじっと見つめているようだった。きれいにかたちの整った彼女の爪は淡い空色に光っている。学生の頃は手を繋ぐたびに彼女の指先に目をやって、水玉模様や花柄に彩られるそれを褒めそやすことに心血を注いでいたというのにいつの頃から彼女と向き合うことを怠るようになっていたのだろうか。向かい合う彼女に目を凝らせば、いつの間にか少し痩せたようだった。
 日曜の朝早くにやってきた彼女は、思い返せばインターホンのカメラ越しに目を合わせたときから暗い顔をしていた。昔からこころのうちを雄弁に語る彼女の表情の変化に気付きもしないで暢気に彼女の訪問を歓迎していた数分前の自分を殴りたい。部屋に上がった彼女は抱擁しようと伸ばした私の腕を払って食卓に着くと、コーヒーを勧める私の声を遮って言った。別れたい、かもしれない。
 寝起きの頭をめいっぱい働かせて考えてみるけれども、この状況を一網打尽に破壊する良案は見出せなかった。朝から悪い冗談だと笑い飛ばすことが出来るのなら彼女もまた笑ってくれるだろうかと考えたけれど、彼女が朝早くに電車を乗り継いで私の家までやってきたことが大問題で、そんなことでこの状態から抜け出せるとは思えなかった。
 昔から彼女は時間に拘泥する性質で、何かをはじめるときは必ず朝一番と決めている。美容院に行くときも、歯医者に行くときも、旅行に行くときも、彼女はいつも決まって朝早くに決行する。私のいない生活もまた、こうして朝から始めるつもりらしかった。

「あー……、と、」

 別れたい、かもしれない。彼女が微かに残した余地になんとか縋りついてみせようと、彼女のこころを引き寄せる重力のような言葉を探してみるけれども頭の中に立ちこめる積乱雲のせいでそう簡単に誂え向きの弁明は探せない。苦しくなって頭を抱えて息を吐き出せばひどく情けない笑声が漏れた。最早、間の抜けた自分自身を笑うことぐらいしか私にはできない。

「すまん」

 体内のあれやこれやを凝縮して、唇からほろりと零れ落ちたのはなんの効果も持ち得ない、とるにたらない謝罪だった。彼女からの返答はない。こんなふうにこころの宿らない謝罪は望んでいないからだ。
 なんでこんなことになっているんだ。
 なんで朝から、こんなに不安定なことになっているんだ。
 働きの鈍い頭で考えてみれば、意外にも可能性を見出すことは容易かった。たぶん、全面的に私が悪い。忙しさに感けて生活から彼女を追い出していた。毎朝コーヒーを淹れて一服する時間があるのなら彼女にメールでもしていれば良かったのだ。おはよう、とたった一言で良いから僅かなコミュニケーションを億劫だと思わずに続けていたら今日もまたなんてことのない朝だったに違いない。彼女が痩せたことにもいち早く気が付いて、食事に誘って、同じものでからだを満たして。
 サア、と強い風の音に気が付いて顔を上げれば雨が降っていた。先程まで晴れていたはずなのに、と窓ガラスに叩きつける雨をぼんやりと見つめながらまるで哀れな自分の胸のうちのようだと思った。降る雨は全てを道連れにして側溝に流れて消えていく。生活をうまく過ごしていくために優先順位を割り振って、さんざんほったらかしにしたくせに今になって焦って関係の修復を試みて、なんて醜い手口だろうかと自分自身にうんざりしてしまうけれども、気付いたことは抗いようもなく事実だった。
 たしかに、彼女のためなら一切合財を失くしても構わないと思っていた。彼女を失わないために生きて、働いて、必死に生活を守っていたというのにいつから逆転してしまったのだろうか。
 舌がひりひりする。コーヒーの味がしない。泣きそうだ。

「おいのこと、もう、好かんごつでもなったか」

 計算外に零れた本音に彼女の指先が大袈裟に震えた。空色に色付いた指先を隠すように彼女がぐっと拳を握りこんで、そんなふうにしては爪の痕が残ってしまうのではないかと思った矢先に手の甲にぱたりと水滴が弾けた。ぎょっとして顔を上げると彼女は泣いていた。ずっと我慢していたのか、両目からぼたぼたとおびただしいほどの涙を流して、唇を噛んで、拳をわなわなと震わせて泣いていた。

「えっ、あ、なん」
「すきだよ」

 顔を両手で覆い隠した彼女が零した。

「ずっとすき」

 彼女がくちにしたさよならに動揺しきって火傷して、ないがしろにしていた「かもしれない」を思い出す。「かもしれない」、その曖昧に隠された価値を掬ってみれば悲しくなって、悔しくなって、切なくなって、一層彼女が愛しくなった。
 何事にも潔く、駆け引きをするほどの周到さを持たない彼女のことだから私を試したわけではないだろうけれど、それでも胸の中で僅かばかりでも期待していたに違いない。舌に乗せた本心をうち消す最後の手段として「かもしれない」と零したに違いない。だから、私は「すまん」だなんて言ってはいけなかったのだ。体内のあれやこれやを凝縮してしまうなら、言いようは他にいくらもあったはずだ。

「……さっき」

 彼女がてのひらから覗かせた両目で窺うような視線を私に向けて息を飲む。
 空気に触れる舌がひりひりと痛む。けれど動揺はもう消えた。

「舌を火傷した。コーヒーで」
「音くんらしくないね」
「ああ、動揺した」

 お前のせいだぞ。
 口には出さずにそんな文句じみた視線を彼女に向ければ、ふふ、とひとみにめいっぱい涙をためたまま彼女が笑った。その瞬間、こころの奥底に刺したおおきな白旗がはためいた。降参だ。
 外は生憎の天気だけれども日曜日の朝だ、ふたりで出掛けるには丁度良い。