可愛らしいと言わざるを得ない顔立ちと、薄く真っ赤な唇から放たれる言葉の鋭さを味わう度に、自分が生真面目に傷つくのが分かった。
本人は当たり前のように使っている会話の流れだと思っている分、単純なキャッチボールすらできない愚鈍な子どもを見るようにわたしを見る。そんなふうに見られて、なにか言い訳や非難めいた言葉を言うことさえもできないで、わたしはまた取り損ねたボールの影を探すように俯くばかりだった。
何度も彼女に見られているであろう俯いた顔の形みたいなものも、もう恥ずかしさすら覚えることはない。ただ、またしくじった、と思うばかりで、それでも飽きることなくボールを投げかけてくる小蝶辺さんを見るたび、よもや彼女はあまり物覚えが良くないのかと疑ってしまう。けれど、客観的にも彼女はどちらかと言えば頭の回転が速く、物覚えも良い方に思えた。だからこそ、何度も会話を止め、俯くようなわたしに向かって懲りることなく言葉を投げる意味が分からない。成長の意志も兆しもないのだから、余計にだ。
つめたく冷えた手すりを強く握りしめながら、やけに堂々と聳え立っているモニュメントを見下ろしていた。下にはぱらぱらと点在している待ち合わせらしき人々が携帯を触ったり、周りを見渡したりして時間を埋めている。
仕事を終え、あとは家に帰るだけだったわたしがその光景に殆ど見惚れるように吸い寄せられた理由は分からない。冬の夜は光をたくさん吸い込んで、とても眩く、まるで星を手の中で開いたようにふんわりとひとつひとつの輝きが鮮やかだ。そんな鮮やかな光の周りで誰かを待つ人々が幸せの象徴にでも見えたのかもしれない。金属の匂いを吸い込みながら、手すりに顎を乗せ、冷たさで目を覚まそうとしても、身体は動かない。
どうせ帰っても一人で眠るだけで、それが嬉しいことでもあるし、悲しいことでもあるのだと、今はなんとなくわかる。昔はなにひとつとして持っていないと思っていたけれど、持っている持っていないを判断するのは自分だけだと気付いてから、自分のありふれた平凡さを憂うだけではなくなった。憂いもあるけれど、悪くもないし、仕方がないのだと、輝いて見える人々を見下ろしながら、動けないまま、そう、思う。
「風邪引くぞ」
「……あ、こんばんは」
「お疲れ、何してるんだ」
「仕事終わって、まぁ、人間観察ですかね」
「こんな寒い中で?相変わらずわけが分からない奴だな」
小蝶辺さんは、さん付けが似合わないような幼い笑顔のまま、けれど思わずさん付けせざるを得ないようなどこか尊大な態度を携えて、また辛辣な言葉で会話を締めくくった。本当はもっとなにかウィットに富んだ内容でうまく返せたら良かったのかもしれないけれど、仕事帰りで若干疲れたような顔の小蝶辺さんを引き留めてしまいそうで、なにも言えなかったのだ。彼女が引き留められるのを嫌う性分であるならば、後姿のわたしにわざわざ話しかけることなんてないのだとも分かってはいる、分かっては。
それでも、わたしはわけが分からない女なので、ただ言葉を探して、金属の錆びた冷たい手すりに顎を押し付けて下を見る。先程まで目で追っていたデートの待ち合わせらしき白いコートに小さな鞄の可愛らしい人形のような女の子がいなくなっていて、背筋を伸ばした。ぐるりとモニュメントの周りを見渡して見ても見つからず、待ち合わせの相手の顔を想像しながら握った手すりは冷たくないように感じる。
小蝶辺さんは会話が終わった筈なのに、そのままわたしの横で同じように真下に視線をやってから、身体を一度弓なりに動かしてこちらを向いた。手すりの上の柵に右ひじをかけるようにして、手の平で自分の頬を包んで、じっとこちらを見ている。見る側から一瞬で見られる側に、小蝶辺さんはこうやって、わたしのいる場所をすべてひっくり返してしまう、とても簡単に。彼女のその立ち振る舞いはまるでテーブルクロス引きを彷彿とさせる手際の良さだ。
「帰らないのか」
「いや、帰ります」
「帰って何するんだ」
「寝ます」
「明日も仕事?」
「そうです」
「ふうん」、う、の部分が疑念ありげに、強められた「ふうん」という彼女の声はそれでもちょっと高く可憐にすら聞こえた。どうしてかと言えば、彼女の唇は薄く紅を引かれているように赤く、真横にちょっと笑った形でゆがめられていたからだ。寒さのせいで頬と耳と鼻をうっすら赤くした小蝶辺さんが、「ふうん」と言って、それからまた辺りが静かになった。
さっきまでは一人で静かなのが当たり前だったのに、彼女の声が消えた後はわたしの耳も、一帯も、静寂に包まれた感じがするから不思議だ。最初からなければなかったとも思わないのに、一度あると、なくなったときの空白が嫌になる程に目立つ、たとえ意識していなくともだ。小蝶辺さんで始まり、小蝶辺さんで終わるのが当然になりつつあるわたしと彼女の会話。沈黙ともある程度親しくなり、親しいのと居心地の良さがイコールではないと気付いた頃合いで、また彼女は口を開く。寒さで動きが鈍くなった両の掌を開いたり、閉じたり、少女のようにぐーぱーの動きを繰り返しながら。
「飯を食べに行かないか」
「はい?」
「何もないんだろう、この後」
「ないですけど」
「嫌か?」
「わたしと言っても楽しくなくないですか」
「どうして、本当にそうなら誘わない。……なぁ」
彼女がそう言って、一度言葉を止めて、鼻の頭を赤くしたまま、すん、と鼻を啜った。本当に寒いのだと分かったし、自分の指の節も、耳の後ろも露出している剥き出しの皮膚すべてもきちんと同じように冷やされている。溜められた言葉のあとに続く言葉を幾つか想像していないといえば嘘になるし、想像のひとつが甘いものであったことも事実だ。けれど、世界は取り立ててわたしに優しくも甘くもなく、彼女がすん、すんと、二度鼻を啜ったあと、鞄を持ち直してわたしを見た。冬の空を忠実に映したような僅かに緑がかった濃い青色の瞳に吸い込まれたひとは星の数ほどいるのだろうし、そうはなりたくない、と思った。思う時点で取り返しがつかないことも分かっているけれど。
鞄を持ち直し、空いている方の手で鼻を擦って彼女はやっと、実際は数十秒もなかったけれど、口を開く。
「いい加減動かないと寒くて死ぬ」
「……それは」
「あったかいものを食べないと」
「はぁ」
「とりあえず車だな、タクシーを拾おう」
彼女はそう言い切って歩き出す。手すりを掴んで一度モニュメントを見下ろしてみると、先程までいた人たちは殆どいなくなり見覚えのない新しい待ち人たちがぱらぱらといた。それは先程よりもずっと少なく、夜が深まってきたせいなのかもしれない。
ぼんやりと動かないわたしを責めるでも引っ張るでもなく、ただ数歩先から振り返った小蝶辺さんが、もう満足した?とでも言いたげにわたしを見た。着いていくとも言っていない筈なのに彼女は後ろを振り返ることなく、タクシーを探しに歩みを進め、直ぐの道路まで小走りになっていく。振り返ってわたしがいなかったらどんな顔をするのだろうかと想像してみると、そこだけくり貫かれた闇ばかり見えて、想像がつかなかった。
きらきらと光る電飾の飾られた剥き出しの木の下で車を止めようと手を上げる小蝶辺さんのところへ少しだけ速度を上げて歩き出す。鳴った靴音はまるで歌い出すように軽やかで、口元が綻ぶのを押し留めるようにぐっと掌を唇に押しつけた。
彼女に追いつき隣に立つと、こんなに近くでまじまじと見ることも無かったせいで意外としっかりした彼女の身体つきに視線がいって、見惚れるようだった。
「どっか、近くのお店とかないんですか」
「どこでもいいか?」
「はい、もしタクシー捕まらないならなんでもいいです」
「……うん」
先程より自分の声の輪郭がはっきりとして太く聞こえたのは彼女にも同じだったらしく、意外そうに目を一瞬開いた後、彼女は笑った。わたしが隠れてやったのと同じように手を唇に押し当てるようにして、でもわたしと違いくすくすと笑い声を上げて。その姿がまた幼く小さく見えて、けれどか弱くは見えないのが小蝶辺さんらしかった。
突発的なくしゃみやしゃっくりにも似た笑い声はすぐに止んで、すんとした顔のまま「じゃあ行くか」と彼女は迷いなく歩き出す。もうその横顔はきちんとした大人の女の人で、些か辛辣で笑い声だけが子どもじみた小蝶辺さんのそれだった。
少し前ならなにも言えなかった筈のわたしはからだじゅうの冷たさや寒さを忘れて「はい」と笑ってしまう程厳かに頷き、それに着いていった。
あたたかい場所で、グラスを合わせて、正面切って彼女を見て、自分がどんな言葉を浮かべるのか、挑戦するような気持ちで。