全く減らない彼女のリクエストである素麺を見た私は反射的に「食欲ないのか」と声をかけた。
素麺が食べたい、という声もいつも通りで、私は特別なことはなにも考えずいつも通り二人分の素麺を茹でたのだ。ああ、夏が来た、桐子が隣にいる夏が、今年も来た、とごうごうと吹きこぼれそうになるお湯を眺めながら私は考えたりもした。
薬味を溶かしながら、ゆっくり素麺を口に運ぶ桐子のその所作は、なんとなく熱が出た時に似ている。
「……うーん、いつもならこれくらい食べられるのにな」
「そうだな、熱とかは」
「ないよ、あったら来ないし」
「まあ、とりあえず余ったら私が食べるけど、無理はするなよ」
うん、と言いながら、小鳥が啄むようにちいさな量の素麺を口に運ぶ、すするのではなく箸で掴んで一口ずつ収めるように。
まさか自分の彼女の食事表現に「小鳥がついばむ」なんて言う羽目になるとは思わなかった。一応、私も桐子もそれなりに料理を嗜んでおり、作ることも食べることも楽しいタイプだったからだ。だからこそ余計に、リクエストしたはずの食べ物をまるでスローモーションのように口に運ぶ姿には違和感しか覚えなかった。いつもと同じ横顔のはずが、でもどこか気が抜けたような、それこそ熱に浮かされたような顔。
キンキンに冷やした氷の入った素麺を私はきちんと音を立てて口に運び、続くようにお茶を流し込んだ。ちょっとクーラー効きすぎか、と桐子の側にあったリモコンを見やると、言葉もなく彼女の腕が伸びてリモコンを私に渡す。細い金色のチェーンブレスレットが真っ白の手首で揺れていて、あれ、こんな細かったっけ。温度を一度上げた後に、いまだに梅干を潰しながら素麺をゆるゆる食べ続けている割に減っていない桐子に声をかけた。
「なんか、痩せたか?」
「……、うん」
「悩みでもあるのか」
「全然違うよ」
「でも、これ」
器と箸を奪ってテーブルに置いた後、桐子の手首を親指と人差し指でわっかを作って確認する。いやいやいや、手首にある浮きあがった骨の形はそのままだけれど、明らかに親指と人差し指では裕に余る程だった。
人と比べて桐子が小さいとか私が大きいとかそんな誤差はなく体格はほぼ同等であるし、ただ、冬の日に繋いでいた手や触れた手首と感触はまるで違う。
しかも、こんな感触のひとつひとつを私はこまめに覚えていることに自分で今更びっくりしてしまった。
「違う?」
「初詣の時はこんなだったぞ」
指先の輪を少し人差し指の爪半分ほど広げて見せると、そっか、と息を吐く音の方が大きいと思えるほどか細い声を出した後、まだ麺つゆに白く浮かぶ素麺と真っ赤な梅干に視線を落とした。
「……あんまり言いたくなかったんだけど、ちょっと」
「ああ」
「普通に、仕事で悩んでて、多分、ご飯最近食べてなかった」
「うん」
「で、全然ご飯入る量も変わっちゃって、明日子ちゃんに会うから普通にしようって思って、」
「素麺ならいける、って?」
こくり、と頷いた桐子の表情はひとりぼっちでブランコに揺られている子どものような顔をしている。ゆっくりと部屋の温度が下がっていくのは、彼女の表情のせいか。いつもならやっと二人で会えたねと笑うくせに、今日だけは二人っきりで会えたのに、という顔をしていて。多分、家に来た時点から明るく振舞っていて、それに気付かないでいた自分に対する愚鈍さにもほとほと呆れてしまう。
「でも、もう仕事のことは解決しててね、身体が追い付いてないっていうか」
「いつから、とか訊いてもいいのか」
「先月、くらい」
「そうか。……なぁ、私は頼りないか?」
「ち、違うよ、お互い忙しいし、頼るとかそういう余裕すらなかったし、全然、ぜんぜん」
反射的に慰められたいという感情だけで放った、頼りないと思われているのかと言う質問に彼女はもちろん違うという言葉を返してくれて、私は密やかに、身勝手に、満足してしまう。エゴイズムはあまりないほうだ、と思っていたけれど、桐子を目の前にすると、どうしても満たされたい感情を埋める言葉を急いて欲しがる自分が存在していて、それほどまでに愛しているだとか綺麗に言うこともできるのかもしれないけれど、いつも彼女よりも先に満たされようとする、そして実際に満たされた私を、滑稽だと思って、自分に失望するのだ。
今回もまた、先に満たされきった私は、恋人の余裕をもった女のふりをして、桐子の肩から背中をそっと撫でた。彼女の体躯にしては大きめの服を着ていても、触れてみれば簡単にあるはずだった肉が削げるようになくなっているのがありありと分かる。
私は手のひらでそっと、どんな壊れ物を扱うよりも丁寧にほとんど剥き出しのような感触になってしまった背骨をまっすぐ撫でた。瞼を閉じてまるで他人の幸福を祈る聖女のような顔で、その感覚に彼女は神経を集中させている。
「次からは、私のことを思い出してくれ」
「うん」
「これ、冷蔵庫に入れておくか」
「ごめんね」
「私の方こそ、ごめんな」
なんで、と泣きそうな瞳と声が、桐子から離れていく私の手や足や顔や背中にすべてに集まってくけれど、気付かない振りをした。
まあどうにかなるだろう。まだ三分の一ほど残った素麺を容器ごと冷蔵庫に押し込んで、私の帰りをじっと待つ彼女は笑わない。涙が溜まっているわけでもないのに、泣きそうとしか形容できない顔で、じっと私を見詰めて、ただ一言「明日子ちゃん」と呟くように私を呼ぶ。
その瞬間、やっと部屋の空気が揺れたような気がした。