やっとの思いで捕まえたものは気体よりも不確かで液体よりも保ち難く熱しても冷やしても決して目に見える固形物にはなってくれなかった。それが希望だとか絶望だとかかなしみだとかよろこびだとか無数の名を与えられる感情の正体だと言うのならそれもまた嘆くべきことではないのだろうと思えたけれども、これまで怠惰を好んできたからだにそれを押しとどめておくことはそれほど容易なことではなかった。
緑色のストローに歯を立てながら繭子はあからさまに不機嫌な顔をしていた。怒っているわけではないけれども明らかに機嫌が傾いでいる。普段からそこまで笑顔でいるわけではないけれど、彼女はさっきからガラス窓にプリントされているスターバックスのシンボルを熱心にじっと見つめている。待ち合わせをして、時間通りに落ち合って、それからここに来るまでの間に俺が彼女の機嫌を損ねるような何かをしでかしてしまったことは確実だろうけれども思い当たる節はなにひとつなかった。
一度機嫌を損ねた繭子は正直に言ってまるで手に負えない。わあわあと喚き散らすことはないけれども、途端に口を開かなくなって、私はあなたのせいでいま気分が落ち込んでいるんだよ、と俺ひとりの耳元で囁くような実に巧妙な空気を醸し出す。女性なんてものは皆似たようなつくりになっていて、不平不満を留めておくだけの余白を体内に持たずぎゃあぎゃあと泣いて喚いて人を責めることを正義だと思っているものだとばかり思っていたけれども、こと彼女に関してはそうではないらしい。そういう単純なつくりであったならどんなに良いか、彼女の機嫌が傾ぐたびに俺はそれまでの経緯を逐一丁寧に辿り、真相を推敲しなくてはならない。これはなかなかに骨が折れる作業だ。
繭子に出会うまではずっと愛だの恋だのそんなものはだらだらと流れていく日常に少し色を添える程度の附属品でしかないと思っていた。ともすれば、安らかな生活を送るためには邪魔になるものだとも。けれども彼女に出会ってからはそう思うこともなくなった。けれどもこういうとき、やはり人と人との間に広がる距離に敷き詰められる感情の逐一を探る作業は面倒だと感じてしまう。けれども投げ出してしまいたいかと言えば決してそんなことはなく、愛とは多分に奥深い。
「…………なあ」
「なに?」
「何か怒ってるのか」
「どうして?怒ってないよ」
「……そうか」
「うん」
それきり会話はなくなった。
氷がすっかり解けきってもはやぼやけた味しかしないアイスコーヒーに口をつけながら俺はほんの三十分程のことを思い返していた。昼過ぎに待ち合わせをして、時間通りに落ち合って、行き先を決めるべく手近にあったカフェに入った。思い返してみればそもそもはなから繭子は機嫌が悪かったように思う。
自らの胸のうちで生じた事件を外に出してしまうようなたちではないから彼女の不機嫌の要因は間違いなく俺にあるのだろうけれどもその所在が掴めない。一体俺が何をしたって言うんだ、と純粋な疑問を胸のうちで反芻しているうちに、俺はいつから他人の内面の機微にこうもかかずらうようになったのだろうかということに疑問点はすり変わる。生まれてからこれまでの間にだらだらと描き続けてきた自画像が途端に別人に見えてしまう。彼女に触れれば触れるほどに見えてくるものは、彼女の内面よりもむしろ把捉の叶わなかった自分自身だった。
もっと経験があったなら、と彼女の機嫌が悪いときはいつも決まって過去の自分を悔いてしまう。
他人が舌に乗せる愛だの恋だのそういうものものの密度を正しく測って遠ざけるための技術ではなくて、たったひとりの恋人の機嫌を上手に掬いあげるだけの器量があれば、と願わずにはいられない。なんの脈絡もなしに好きだと舌に乗せることはできても、人込みで躊躇いなく手を取ることはできても、不機嫌に気付くだけのことはできてもそれを打開する術を持ち合わせていないのであればまるで話にならない。後悔と憎悪ばかりを引き連れて時に黒々と視界を覆う過去の自分はずるずると引き摺ってゆくしかないのだと繭子は言った。案外大胆に生きている彼女はだから何だと俺の憂鬱を一蹴するけれども、肯定を得ることで一切合財が救われるかと言えばそうそう単純な話でもない。
こういう方面に於いての人間関係に背水の陣で挑むのはこれが初めてだ。愛とは多分に奥深く、彼女の声に、或いは瞳に潜んでいるそれを確かに捕えたような気になった日もあったけども、硬く結んだ掌を開いてみればなぜかそれは見当たらない。だから俺はいつだってこうしてみっともなく右往左往している。馬鹿げている、と遠ざけていた行為に今や夢中だ。
「なあ、怒っちゃいないが何か言いたいことがあるんだろ」
「…………うん」
ガラス窓にプリントされているスターバックスのシンボルをじっと見つめながら繭子が小さく頷いた。そして彼女は窺うような視線を俺に向け、かなしい目をして唇をそっと引き結んだ。
「タバコの量、増えてるなって」
「……あー、タールの少ないやつに変えたんだがな」
「肺炎とかになっちゃったら、いやだなって思って」
指先で緑色のストローを弄びながら繭子が言う。それならそうと気付いたときに言えば良いものを、彼女のことだから俺の趣味嗜好に口を出すのは嫌だとかなんとか配慮になるかも怪しいことを考えたに違いない。俺にしてみれば心のうちを明かさないままに不機嫌を気取られたほうがよっぽど堪えるのだけれども、彼女はなぜそれに気付かないのか。
「いや、流石にこれ以上量を増やそうとは思わんが」
「本当に?」
「嫌ならもう吸わないし」
「一本も?」
「一本も」
「そっか」
安心したように顔を綻ばせた繭子はふと俺の顔を見て困ったように小さく笑った。
「なんか、ごめんね」
些細なことですぐに謝る癖はいつまで経っても直らない。けれども、彼女のそういうところが愛おしい。
呼吸してきた全ての時間を費やして描きあげた自画像を毎日のように修正させる、恋愛とは多分に不便な行為だ。疲れ果てた指先をぎゅっと握りこんでもう面倒だと項垂れることはしょっちゅうだけれども、もう止めてしまいたいとは露ほどにも思わない。過去を恨んでも、歯がゆさに胸が痛んでも、やっとの思いで捕えたものをこの体内から逃す気にはならなかった。
俺を貶めては圧倒的質量で痛んだ胸を満たしていく甘美な罠の正体を俺は知っている。愛だ。