縁も闌、月も麗し



 折れそうなヒールを履いて繁華街を歩く彼女の姿を見て、思わず俺は足を止めた。
 いつもは高くても五センチ、七センチ、太めのヒールで足に負荷をかけない姿しか見かけない。ふわりとした男受けのよさそうなワンピースに、何が入るのか分からない小さな鞄をゆらりゆらり、揺らして歩く。まるで幽霊のように夜の街へ消えていくから、俺が見間違えたのか、幻覚でも見てしまったのか。
 こんな時間なのに待ち合わせなのか本屋の前とレコードショップの前には人だかりが出来ていて、俺は急いで彼女の姿を追った。丁寧に巻いてセットされた髪の毛を、惜しみなく出されたうなじを、手繰るようにひたすら駆けていく。ほとんど真後ろに着いてから、反射的に腕を掴みそうになって、一度我に返った。それこそ、他人だったら変質者になってしまうし、回り込んで顔を覗くこともリスクがある。
 細いヒールがぽきりと折れたかと思ったら、彼女が俺の方を見るために振り返ったのだと分かった。ちょっとよれたアイライン、にじんだマスカラ、疲れた微笑み。

「水木くん?」
「やっぱり。繭子か」
「よく見つけたね」
「隠れてたのか?」
「そろそろ隠れようと思ってたところ」

 弱弱しい微笑みが、夜の街燈に挟まれてぼんやりと照らされていく。俺よりも幼く見えて、俺より当たり前のように小さい体に、幾度の躊躇いを持った後、一歩だけ近づいた。
 ぬるくてべたついた風が俺と彼女の髪の毛を揺らす。
 どこへ行っていたのか、これからどこへ行こうとしていたのかも、聞きたくなかった。訊かなくてもわかっているような気がしたし、わざわざ彼女の口から聞き出したい気持ちもなかった。
 まだぎりぎり終電の残っている繁華街の道で、ただ向かい合って黙っている男女なんて怪しいことこの上ない。怪しい、いや、揉めているとでも思われているのか、居酒屋のキャッチすら声をかけてこなかった。

「すぐ忘れるけど、お互いもう大人なんだよね」
「え?」
「お酒、連れてっていいってこと」
「そりゃあ、もうどこでも行けるさ、お前の行きたいとこなら」
「付き合ってくれるの?」
「……基本的には」
「水木くんの現実的で嘘が下手なところ、わたし好きだよ」

 海外に今から行きたいと言われたら無理だし、明日から北海道に行こうと言われても仕事がある。当たり前にわがままを言うはずがないのに、都合のいい相槌を打てなかった俺を見て、彼女は初めてきちんと笑ってくれた。
 情けないほどに正直でいたい、と願ってみるものの本当にそうあってしまうと弊害は数限りない。女子はいつでも都合の良い相槌を求めるし、決まっている答えがあるくせに質問をしてくるからだ。
 じゃあ、いま決まっている答えのある問いかけを目の前の彼女はしただろうか?思い返してみてもそういう人間とは程遠い性格をしている、とはいえ、視線がいつもと違うことに気が付いていた。いわゆる、ガードが堅い、とされる姿とはちょっと違う。どう攻めるのがいいのか、と、いうか攻めることが吉と出るのか凶と出るのか。

「どっか、飲み行くか」
「……ねえ」
「なんで笑うんだよ」
「水木くんから誘われるとは思わなかった」
「そんなに薄情に見えたか」
「それもあるけど、」

 向かい合っていたはずの彼女がくるりと俺の隣に並んで、ひとつ歩みを進めた。

「そんなに落ち込んでるように見えた?」

 笑い声のような、囁き声のような音がじんわりと片方の耳に広がっていく。嬉しそうに薄い桃色で彩られた指先が俺に触れる。そこでやっと、アルコールをもうとっくに彼女が飲んでいる、という事実に思い当たるのだった。

「水木くん、ここら辺のお店知ってるの」
「タクシー使っていいか?」
「あんまり遠くなければ。戻ってこれなくなっちゃうから」

 戻ってくることができなくなったら、ずっと俺といたらいいのに。
 言いそうになった言葉を飲み込んで、何も感じていないような声で「大してかからんと思うが」と返すと、まるでかわいい弟の成長を面白がるように「へぇ、行きつけ?」なんて茶化して答えて見せた。一瞬だけ、戻ってこられなくなることを恐れた姿はもう微塵も感じることはない。
 二人で大通りをまっすぐ抜けるように進んでいく。交差点からすこしばかり外れた高架下の方へ向かえば人通りも落ち着いて、タクシーも拾えるだろう。彼女の二の腕の周りの空気を包むようにそっと歩き出してみた。まるでダンスみたいに息の合った俺たちはゆっくり暗くなる道を進んでいく。空車の表示を掲げたタクシーを目を皿にして探しながら、真っ白の、ヒールと同じくらい細い指先を俺は掴んだ。

「どうしたの?」
「なんか、確認」
「確認?」
「掴んどかないと、消えそうだったから」
「なにそれ」

 彼女が今度は眉を下げて、唇を上げて、それでも笑っているようには見えなかった。
 ただ過ぎていく車を見つめながら、夏とは思えないほど冷えた指先を、繋がった彼女のすべてが消えないように、でも壊してしまわないように、ひたすら俺は彼女の指を掴んでいた。まるで迷子を恐れる様な子供みたいだけれど、横を見ると誰よりも迷子の顔をした繭子が立っている。
 今日で抜け出せるだろうか、いつか抜け出して、出口で抱きしめたい。
 素面では深夜でも言えないけれど、そんなことを考えながらやっと走ってきた空車の表示を掲げたタクシーに向かって俺は手を挙げた。