耳鳴りが苛む夜に



 掛け布団の中でそっと彼の手を掴むと、ゆるゆるとこちらを見て、瞼をゆっくりと動かす。眠っていたのかと思ったけれど、その瞳はしっかりと覚醒している。
 身体ごと彼の方へ向けて、一昨日くらいから考えていた言葉をやっと絞り出した。かすかすになってしまった歯磨き粉のチューブの中身を絞り出しているみたいな不明瞭さで。
 ずっと言いたくて、言えなくて、言ったらどんな顔をするのか、ずっと想像していたけれど、未だに分からない。掛け布団の中に納まっている筈なのにいやに冷たい両方の足先を擦り合わせる。

「結婚するんだって」
「はあ」
「うん、それだけなんだけど」
「そうなんですねえ」

 同情して貰えるとも思わなかったけれど、ゲタ吉が瞬きをしながら考える相手は誰なのだろうかとちらりと考えた。想像もつかない、彼の想い人について。
 もう何も言わないだろうという沈黙の間に、ゲタ吉はわたしと顔を合わせるように身体を内側に向ける。長く細くごつごつとした指先が、握るのと乗せるのの中間くらいの力でわたしの指先に絡められた。掛け布団からはみ出した剥き出しの肩と首筋が寒そうで、でも彼は全く気にせずに躊躇いもなく、「どんな気持ち?」と言った。
 ゲタ吉の、悪意や濁りのない声は身体に簡単に沁み込んでいく。染み込みすぎて、その言葉が質問であることすらわたしは忘れてしまいそうになった。
 絡まった指先は生暖かいのに、湿ることはない。何度も何度も冷えた足先を擦り合わせながら、必死に質問に答えようと頭を働かせてみるけれど、言葉が出てこなかった。
 あの人はとても嬉しそうで幸せそうで、ついにこの時が来たんだと傍観者であるわたしは考えて、思考を止めた。時間はその日から少し経っていて、けれど報告を聞いた瞬間から、少し考えた思考から時間はずっと止まっている。止める前の考えをゲタ吉に伝えても良かったけれど、それが本当でないこともすぐに分かられてしまうと思った。例え、むかつくとか悔しいとかセンスがないとか罵詈雑言を並べ立ててもゲタ吉はあんまり軽蔑しない。でもそういうことを考えているわけでもない。

さん?」
「……あ、ごめん」
「ちょっと待って。ティッシュ」
「嫌。離れないで」

 起き上がろうとして滑らかに離れようとしたゲタ吉の指先を、自分の指先で力を込めて挟み込む。半分身体を持ち上げたせいで、何も身に着けていない上半身が剥き出しになって、ゲタ吉はへにゃり、と眉を下げた。素早く隣に戻ったのは、寒かったせいだろうか。掛け布団の下で、わたしの手を両手で包み込む様にしながら、これでいい?と目が言っている。包まれた手を維持したまま、わたしは彼の胸に額を押し付けた。
 お互いの手は明らかに行き場をなくして、邪魔になっていて、それでも胸の下で組む様にして形は維持され続けている。ゲタ吉の胸は固くて、ひんやりと冷たくて、ちょっと震えている。

「情けなくて、ダサくて、でも嬉しい気持ち」
「はい?」
「どんな気持ちって聞くから」
「……嬉しい?どうして」
「しあわせそうだったから。でも、わたしが幸せにすることはできなかったからダサい」
「ダサくはないでしょ」

 「頭撫でてもいいですか?」、ゲタ吉が律儀にそう言うからわたしは胸に顔を押し当てたまま、小さく頷いた。苦し気に押し込まれていた四本の腕たちが解放される。わたしの分の腕はやることが無くなって、片方は自分の胸の所で折り曲げて、もう反対の外側にある手は彼の筋肉が付いているけれどやけに細い腰の上に置くことにした。ただ、顔を押し当てている場所が違う所為か未だにゲタ吉の心臓の音は聞こえない。
 目を閉じて、さっき少し乱れた呼吸を正すと、簡単に瞼も身体も重くなっていく。
 この少し寒い部屋にゲタ吉と一緒にいると、どうしてかやけに眠くなる。ゲタ吉がわたしの頭から首筋にかけてを、何度も繰り返し撫でる。厭らしくもなく、子どもをあやすようでもなく、無機質なオブジェか何かを触っているみたいな手つきですうすうと撫でられている。

「次はさんが幸せに出来るんじゃないですかねえ」
「次に好きになった人をってこと?」
「そう」
「いつになるのかなぁ」
「それは俺には分からないですけど」
「そうだねぇ」

 わたしがちょっとだけ顔を上げてゲタ吉を盗み見ると、彼はその視線に気付いているくせにどこかを見ていた。
 思い出しているのか、考えているのか、わたしではない何かを、誰かを。
 わたしはゲタ吉の腰に置いた腕をもっと奥に押し込む様にして、彼の背中に手の平を当てた。冷た、と言う声が聞こえて、彼の撫でていた手が止まる。
 ゲタ吉も好きな人の事を幸せにできるといいね、そう言いたかったけれど、いったい何様なのか分からないから言うことができなかった。けれども、この人がきちんと笑っているところを見たら、わたしは今とは違う心臓が撓るような痛みを覚えるだろう。
 それでもいいから、隣で眠ることもしなくていいから、いつかは、全部うまくいくといいよね。
 都合のいい、図々しい、我儘な、欲張りな将来に思いを巡らせながら、やっとあたたかくなってきたゲタ吉の身体からそっと、距離を置いた。