Pistris - 誰もいない銀河を泳ぐ海獣



 パスコードも、SNSのアカウントも、待ち受けすらも、もう見ないようにしている。
 視界に入ってくるロック画面の何気ない風景の写真ですら、定期的な色の変化で、彼氏と出かけたのかな、とわざわざ邪推して自分を追い込んでしまうのだから救えない。
 このちいさな部屋の中でしか、俺は彼女を自分のものにすることができない。
 その事実を反芻するほど虚しくなるけれど、たまに野性的に、けれどほとんどが悲しそうに俺を見るその瞳や、きちんと俺の隣に僅か数センチの距離を開けて座る彼女がいる、それだけで、手放したくないと思うのだ。

「なあ、こっち見て」
「……なぁに」
「忙しい?」
「ん、ちょっと待ってね」

 彼女は、俺とは正反対の精度で携帯を触らず、そして恐らくは使いこなせていない。ゆっくり、ゆっくりと連絡に返信している背中に近づかないようにしながら、手持ち無沙汰で空っぽの身体を持て余している。
 本人はきっと平均的なスピードだと思っているのだろうけれど、俺に遅いと思われているのだからなかなかだ。普段の俺が急いていないと言ったら嘘になる、けれどもそれを差し引いてもなかなかの鈍行さだと言わざるを得ない。
 よし、と口だけを動かして、携帯の画面が暗くなった。俺のが戻ってくる、いや、俺のではないけれど、今は、俺の。
 なぁに、ちょっと待ってね、と先程放たれた甘ったるい声を思い出すだけで身体が震える。の彼氏という座に納まっているどこかの男は、この甘い声を電話や、家で、たくさん、狂おしいほど聞いているのかと、そんな立場の人間が地球上に存在していること、そしてそれが俺ではないことに、心底ぞっとする。
 なによりも、俺が今の立ち位置で身動きを取れないでいることが一番ぞっとすることなのかもしれない。

「お待たせ」
「……今日もマメだね」
「そうだね、わたしはマメじゃないから、」

 からだごとこちらへ向けて、重たそうなほどに長い睫毛がちいさく影を作り、伏し目のまま彼女は唇の端を上げる。笑っているわけではないのに、いつも、そうやって笑ったふりをするのだ。  それを嘘だと言い放つ力も勇気もない俺は、見なかったふりをして、どこか違うところに視線を向ける。どこを見ても、ひとりでいるときに見飽きたつまらない景色ばかりだ。
 先程の言葉に、大変だよ、だとか、苦労する、だとか、最後に愚痴めいた言葉を何も付け足すこともなかったのは、真実ソイツを愛しているから濁したのだろうか、なんて、くだらないことばかり考える。
 本当は、彼女が俺の世界にやってきている、数少ない、いつ終わるかわからない尊い時間すべてで彼女に触れて、彼女のことだけを考えていればいいはずなのに、二人でいる時間ほど、いないはずの人間のことを考えてしまう。

「今日はもう少しいられるんだけど、帰った方が良くなったら言ってね」
「別に、好きなだけいたら?」
「ありがとう」
「いつものことじゃん」
「そうだね」

 帰らなくたっていい。彼女に男がいることは事実だけれど、彼女はその男と暮らしているわけではない。それなのに、きっと恐ろしいほどの律儀さで、男と約束した通りの時間に彼女は帰る。電話でもするのか、ただ約束だからなのか、愛しているのか、俺には見当もつかないし、知りたくもない。
 ただ真っ白いシーツの上で、放り出されたビスクドールのように存在する彼女に、一秒でも長く触れていたいと思う、その気持ちがいまだ萎えることがなく、そのせいで俺はいつも飲みもしないお茶をストックするはめになっていた。
 わたしが来るから買ってきてくれたの?、きちんと笑った彼女がコンビニにも売っているありふれたお茶のセロファンを何度も何度も撫でるからどんどん増えていき、たまに俺も飲んで、会えない時間を誤魔化してみたりする。会えない時間も、どこかで同じものを飲んでいるのだろうか、と、乙女のようなことを考えていることなんて気づいてないだろう。
 知ってほしい、とも思わないけれど、どこかでそのくらい愛しているのだと知ってほしい。愛しているとも、帰らないでほしいとも、何も言えないまま、ずるずるとこの関係を続けている恐ろしさが、いつも俺の背中を這っているのだ。
 狂い出しそう、なんて陳腐な言葉では言えないような、ただすべての感覚が麻痺していくような感覚。最後には、彼女を愛していることすらわからなくなったまま、この白い部屋のなかで、二人で重なり合うのかもしれない。

「こっち来て」
「はい」
「今日もいい匂いする」
「ん、そう?」

 首筋に舌を這わせると簡単に彼女はかすかに甘い声を出して、簡単に俺の頭をふやかせる。
 気を抜いたらすぐに口をついて出てしまいそうな、愛してる、の代わりに首筋に唇を押し付けて、帰らないで、という言葉の代わりに強く抱きしめる。
 折れそうな身体を夢中で抱きしめても、痛いと言わない彼女に矮小な俺はいつでも甘えてしまう。
 一生、抱きしめて、くだらない話をして、たまに唇を重ねて、この白い部屋に二人だけでいれたらいいのにと、強く思う。
 思えば思うほどに、叶わないこともじゅうぶん分かっていたけれど、それでもいつだって俺は懲りずに夢想するのだった。