脳を震わす鯨の歌に、遥か宇宙の輪郭を見た



 ただいま、と合鍵を使って玄関のドアを開けた蓮くんが、廊下で待ち構えていたわたしをぎゅっと抱きしめる。わたしはそれを、毎日行っている儀式のような顔で当たり前に受け入れる。おかえりなさい。そう返して強く抱きしめ返した。
 急いで来てくれたのか、いや、ただ外が暑かったのだろう。彼の身体は火照っていて、珍しく背中に回された掌の熱を強く感じる。
 彼の背中に回した自分の腕の、手首に巻いたシルバーのブレスレットをわたしは指先でそっと撫でて、腕を解くと彼の手を引いてリビングへ向かった。

、こっち」

 泣きたくなるほど妖艶に彼は微笑んで、わたしの手を浚うように掴むとリビングを素通りしてベッドルームへ向かう。文字通り性急に沈んでいくシーツの海の中、するすると当たり前のように進んでいく夜にわたしは抵抗なんてしなかった。
 まさかすぐにこの部屋に入るとは思わなかったうえに、ベッドルームのドアをきちんと彼が閉めきったせいで、クーラーの効いていない部屋は暑くて暑くて仕方がない。じんわりと額に汗を浮かべたまま、わたしの首筋に唇を落とす彼の表情は、まるで本当にわたしのことを愛しているかのようだった。
 ”なにか”を求めるのは、いつもどんなふうに熱に浮かされていても、ことが終われば冷静になって、余計に滑稽で惨めになってしまうから、ただひたすらに今が幸福の絶頂であるふりをした。喜んでいるような声をあげて、キレイにセットされた彼の銀髪に触れて、小さく身を捩ったりしてみる。
 それなりに整えていたはずのシーツがぐちゃぐちゃになって、わたしはただ疲れて、漸く納得をしたらしい彼がごろんとベッドに寝転がった。一息つくと、天井の白さがいやに目に付く。

「クーラーつける?」
「あとでね、」
「手、あつい。でも蓮くん、ほんとにあんまり汗かかないね」
「は、なに。誰と比べてんの」

 ぐるり、とベッドに横たわったまま向かい合うような体勢にさせられて、彼の開かない眼がわたしを鋭く射抜く。
 別にはじめての相手が彼なわけではないから、比較することだって当たり前にできるはずなのに、それがまるで罪悪のように感じてしまう。蓮くんのすごいところは、人間としてわたしがきちんと彼のものになれるわけでは決してないのに、全力で不服そうな顔ができるところだ。
 指先と指先を絡ませて、それがそのまま肌の熱でやけどして皮膚がどろどろになってくっつけるわけでもないというのに、強く強く握りしめる。
 既成事実、という言葉を、たまにひどく羨ましく思うときがある。そんなものを作ることができたら、どれだけ幸せだろうか。何時に来るか、何時に帰るか、次がいつなのか、わからない日々の中で確実に会えることなんて、そんな小さな願いすらまだ叶えたことはない。

「なんで蓮くんが怒るの」
「俺といる時に俺以外のこと考えてたら普通に怒るでしょ」
「……そう」
「なにが不満?」
「ううん、なにも」

 「なにも」、かも、不満だと、真実を口にしてしまったら、彼がもう二度とここに来ることはなくなるのだと知っている。
 彼はある程度満たされているし、満たされたうえで、飢えた真似をしているのだ。しなやかな獣のように美しい人だから、わたしはなにを言うこともない。
 ただ、たとえば太陽の光の下で彼と手を繋いで歩いたり、彼が送り迎えをしてくれたり、愛してると囁いてくれる、そんな女性が地球上にはいないことも知っているから、その人はどんな人なのだろう、と詮ないことを考えたりもしない。わたしは彼の恋人にはなれないし、させてもらえない。ただ、彼にとって利用価値があるからキープされているに過ぎないのだから。
 その存在しない立場を狙っている強欲かつ身の程知らずな人間だと思われたくなくて、わたしはなにも言わないけれど。

「嫌になったら言って」
「……蓮くんのこと?」
「ていうか、俺のことも、こういうことも」
「止めてくれるの」
「嫌ならね」
「もう会えなくなるってこと?」
がそうしたいならするけど」

 ぐしゃぐしゃのシーツの上で蓮くんがごろりと寝転んで天井を見つめる。はらり、花びらが舞うみたいに涙が頬を伝った。まるでドラマのワンシーンみたいで、それがあまりにも陳腐で言葉が出なくなった。
 彼の機能を著しく低下させることも、それを普段通りに修正することも、わたしにはきっと一生不可能で、それができるたったひとりにこそ、彼は愛憎とでも呼ぶべき執着を向けている。
 好きなことも、愛しているということも、からだとこころとことばのすべてで伝えたはずなのに。泥に灸、沼に杭。こんなのもう、行き止まりだ。

「ねえ、蓮くん」
「なに」
「キスして」

 涙は薄っぺらく、指先で拭うとすぐに乾いて消えた。
 彼の肩に手をかけてわたしから彼の顔に唇を近づけると、人生で幾度繰り返されたか分からないキスをまた重ねる。何度も何度も、唇が触れるたびに、好きだ、という気持ちで満ちていたはずの心臓から”好き”がぼろぼろとこぼれていった。
 深いキスでもないはずなのに、呼吸が苦しくて、ただひたすらに彼の頬を手で撫でる。

「なんで泣くの」
「なんで……」

 滑稽だから、愚かだから、先がないから。分かってしまったから。それでも、抜け出せないことに。それでも、この家にやってくる蓮くんの彼女のような顔をして彼をわたしが迎えることを。絶対にやめることができない、わたしの名を呼ぶ声も、熱いてのひらも、眩暈がするほどに優しい吐息も。顔を見合わせて食事を摂るだけで、どんな高級ワインよりも上質な酩酊を手に入れることも。言葉にもできないほどの幸福がわたしを包んでくれることも。
 好き、愛してる、あなたがいないと生きていけない、なんて、馬鹿みたいだから言わないけれど、捨てられるまで飽きられるまで、わたしはずっとここにいるのだろう。

 あなたがいなくてもきっと生きていけるけれど、今、あなたがいない生活を、人生を、わたしは考えることなどできないのだから。