星は駆ける、幾千万の闇を愛して



 ベッド脇の小さな椅子、殆どクッションといった風合いの物に座ったわたしが手を伸ばして伸び切った足を揺すると、彫刻のように美しく目を閉じていた彼が、んんん、と唸り声を上げて両手を頭上に伸ばした。
 わたしがクッションを引きずるようにして彼の近くに寄ると、いつも綺麗な二重の筈の彼の片方の瞼が浮腫んでいるのが分かった。隆文でも浮腫むのか、当たり前なのになんでだか信じることができなくて、そっと手を伸ばして彼の頬を指先でちょっとだけ押してみる。痩けた肉の柔らかさと人肌のあたたかさがきちんと自分の指にも伝わって、まだ眠たげな彼がわたしを見てゆるゆると目を細め、唇の両端を上げた。思い出したようにわたしの方に顔を向けて、ひどく緩慢に「おはよう」と言った声は少し掠れている。あまり一気に話しかけるのもよくないような気がして、少し間を空けてから「おはようございます」と返した。
 本人は気付いていないのだろうけれど、天使の目覚めみたいに柔らかな微笑みを浮かべたまま大きく伸びをする。腕を伸ばしきったあと、日常に染み込んだ動きで枕の下に滑り込ませていたらしい携帯に手を伸ばす。わたしはまだちょっと浮腫んでいる顔の隆文から目を離して、後頭部をベッドのマットレスに押し付けた。
 テーブルに置かれたリモコンに手を伸ばして赤いボタンを押すと、テレビの音が流れてくる。あんまり見ないチャンネル、リポーターが浴衣を着てどこかのイベントの会場を歩いていた。金魚の飾りが真っ黒い天井からぶら下げられてゆっくりと揺れている。妖艶な色のその世界でやけにはきはきと、いかにも楽しそうに話す声は少し場所に不釣り合いな気がした。

「腹減った?なんか適当に食っていーよ」
「うん」
「んー……なんか、が食えるもん、あったと思うけどな」

 首を斜め四十五度、寝転がったまま携帯を寛いだ体制で触る隆文の方に向けると目が合った。じっ、と彼がわたしを見ている。ぐしゃぐしゃになった寝癖のせいで、髪の毛の量がいつもより多く感じた。
 わたしが隆文に惹きつけられるように視線を注ぎ続けていることなんてきっと慣れ切っていて、だから満ち足りたような、理解しきったような顔で彼は笑ってみせる。見られることが当然として生きてきた人間特有の表情だ。余裕さだとか当然さ、みたいな空気が澄んだまま部屋の中いっぱいに広がっている。
 何回も、何百回も隆文は朝を迎えていて、そのうちのひとつで朝一番に見た顔がこの顔であることが気味が悪かった。ゼロ回であればきっとなんとも思わなかったかもしれない、一度でもそれが行われてしまうと、なにかが記憶に記録されて刻まれてしまうのだ。
 人に言わなければ起きていない物事なのかもしれないけれど、隆文とわたしにとっては事実で、絶対的に否定することはできない。或いは忘れたふりもできるのかもしれないけれど、無かったことにはどうしてもできないのだ。
 まだベッドから動こうとしない隆文の視線を惹きつける電子画面の中身を一瞬想像してからすぐに止める。知りたいとも、辞めてほしいとも思わなかった。隆文の事を綺麗だと思うけれど、好きだと思わないのとおんなじことなんだろう。
 テレビは天気予報に変わって、今日もまた猛暑日になることを、熱中症に注意という聞き飽きた言葉が流れている。視界の端で足を上げてばねみたいに急に隆文が起き上がるのが見え、起き上がったあとで彼はキッチンの方に向かって歩いていった。後頭部の髪がアニメのキャラクターみたいにぴょこん、と見事なほど跳ねている。
 マグカップになみなみとお茶を、四個で売っているヨーグルトの一つとスプーンを器用に持った隆文が戻ってきてテーブルにそれを置く。そのあと、「ごろん」以外の効果音が思いつかないくらいの動きでまた先程と同じようにベッドに彼は寝転がる。

「これしかなかったわ」
「いや、ありがとうございます」
「なんで敬語」
「なんとなく?」
「まだ俺起きられないから」

 言葉の通り、緩慢に瞼を動かして隆文が言う。睫毛がやたらめったらに重いのか、瞼自体が眠気のせいで重いのか判別がつかない。
 わたしはテーブルに置かれたヨーグルトの蓋を剥がした。砂糖が加えられていないプレーンヨーグルトのちょっと酸っぱい匂いがして、コップに入ったお茶で喉を潤してから一掬い口に入れた。空腹感があったようななかったような感じで塊のままヨーグルトを飲み込むと、真っ直ぐ身体に落ちていく冷えた感覚がする。
 まだ食べる、食べない以前に眠りの淵に立っている隆文が斜めからわたしの名前を呼んだ。振り返ると携帯を握って、けれどその手を下ろした状態で重たげな目許のままとろりとした顔と声で「うまいの」と疑問符がついているのか分からない声で言う。掠れた声に色気を感じたのが遠い昔の事のようだった。
 隆文が朝ごはんを食べないことは分かっていて、でもわたしの為に一度起き上がってくれたというただの取るに足らないことが刻まれてしまう。刻みたくないのに、増えていく取るに足らない記録、記憶、事実。隆文の角度から見たらきっと誰にでも行う、否、行ってきたようなことの筈なのに。一口体内に落としてしまうと、身体の中に一瞬で小さなパッケージに入ったヨーグルトは無くなってしまう。

「やっぱり腹減ってたんだな」
「そうかも」
「寝れた?」

 手を伸ばされて、わたしは喉を濡らす程度にお茶を飲んでから引っ張られるみたいに隆文の腕に滑り込んだ。彼のまだ生ぬるい熱を持った身体に包み込まれながら、目を閉じる。
 眠い?、今度ははっきりとした彼の疑問符に、ううん、と首を振って声を出して答えると、強く彼がわたしを抱きしめる。痛くて、苦しくて、けれどもこんな時間もいつか終わるような気がして、わたしは彼の背中に腕を回して肩甲骨をゆっくりと撫でた。
 少しだけ汗ばんだ背中のあたたかさをひとつでも多く味わいたくて、深く深く息を吸いこんでみる。隆文のシャンプーの甘い香りがして、彼の着ているTシャツだけをきつく、きつく、ばれないように握りしめた。