いつか夜のない星で会いましょう



 視界に入った隆文の姿は、ただ歩いて来ているだけなのにとんでもなく目立っていて、わたしは手を口元に当てて笑いそうになるのを抑えた。
 本当に暫くずっと会っていなかった彼が待ち合わせ場所にやって来た時、小さすぎる顔を覆うみたいなサングラスが最初に目に入ったのだ。
 子供の頃によく遊んでいた、たかふみくん、という存在が、身長190cm近い成人男性の劍隆文とまだ結びつかない。ちょこちょこと顔を合わせては髪形が変わり、大人になっていくさまも見てきたけれど、一番小さかった、はじめて顔を合わせた時のまだちょっと丸い顔でわたしの言葉をゆっくりと咀嚼するように聞いてくれていた、本当は何にも聞いてなかったのかもしれない、たかふみくん。
 アルバムに綴じられた写真の中で、信じられない程小さな服と靴を身にまとい、男だとか女だとか関係なく土のついた手でピースサインを作ったわたしと彼。
 彼と会うのは成人してからまだ片手で数えるほどで、それ以上にわたしの両親の方が彼の両親と会っている。馬が合うというのが父の意見で、わたしはそれを聞き流す、彼氏はできた?という母の言葉と一緒に聞こえないふりをして。

「目立つねぇ、すごい」
「んー、かもな」
「身長の話じゃないよ」
晶月は伸びなかったもんな、背」

 会おう会おうという社交辞令は幾度となく繰り返されていたけれど、本当に二人で会おうと彼から連絡が来たときは正直返事に迷った。
 彼らの活動はそれなりに見てきたし、彼らに"ガチ"のファンがついているのも知っている。だからこそ会わない方がいいような気がしたし、初恋は叶わないし綺麗なまま、保存しておきたかったからだ。
 高校くらいまでの隆文は知っていて、でもそのあとの隆文は親や友人からのまた聞きで。
 染めていないシンプルな黒髪なのに人目を引く顔立ち、大ぶりのサングラスをかけて、上着を軽くかき抱く全てが様になっていた。ちょっと小ばかにしたように目を細めて、唇を歪めて、ハスキーな声でわたしの頭の上数センチで手を浮かせる。
 手をそのまま左右に動かして「ちっちゃ」と重ねるように彼は声を出すけれど、隆文から見て大きいと思う女の子なんてそんなにいない。180cmないとそもそも彼と同じ視点で物事を見られないのだから。
 持っている中でも一番高いヒールを履いてやってきた自分が、なんとなく彼に子どもじみた対抗意識を持っていたのだと気付く。あの頃のたかふみくんはもういなくて、彼をそう呼んだ幼いわたしももういない。残った感情はただの子どもじみた反骨精神だけなのだ。

「隆文が伸びすぎなんだよね、首いったいわ」
「いいだろ別に」
「いやまあ、待ち合わせ場所に最適だよ」
「……せめて見つけやすいとか言い方あるだろ」
「うん、見つけやすい」
「お前は、あれだな、変わったな」

 つんとスカした横顔で、笑ってもいない声で隆文が言うから、昔の事を思い出しているのだと分かった。特別に目立つエピソードがあるわけではなかった、一番最初から高校くらいまでのわたしたちの沢山ある、些細な、どんどん遠ざかっていった日々。髪を切ったり、好きな人ができたり、隆文と話せなくなったり、彼氏と歩いている時に隆文と会ったり、その逆があったり。
 男にも女にも存外はっきりした態度を取る隆文が、一番最初にノートを借りに来るのがわたしだったのを初めは自慢げに思っていた。けれども、昔から知っているから、という、一生変わらない出会うべきタイミングを間違えたという事実に気付いたのも早かった。
 なんとなく最初に付き合った人は隆文に全くと言っていいほど似ていなくて、隆文の彼女もわたしとは正反対な女の子だった。お互いにすれ違って、変な値踏みをしていたような気がする、わたしも、隆文も。
 そういう小さなガラスの破片みたいに、かき集めたら傷ついて血が出てくるような思い出を一気に両手で掬い上げてみる。変わったわたしは、変わったように見せる術を覚えただけでなにも変わっていないわたしなのだ、とこの夜だけ気付かれなければいい。

「褒めてるよね」
「や、違うけど」
「そこは嘘でも褒めてるって言えばいいのに」
「でもなぁ、」
「隆文は変わってないね。あ、褒めてるよ」

 わたしと隆文を引き合わせた夜に、深い意味も特別さも、なにもかもが必要じゃなかった。
 両親にも言わず、ただ黙って二人で食事をして、少しお酒を飲んで、懐古するように昔話をして、終電までに帰るだけの数時間。
 美容室に行ったのも、洋服選びに時間をかけたのも、なにもかも自分の小さな、小さなプライドのためだ。隆文は一秒もわたしを女の子として好きにならなかったから、だからこそ勿体ないと思われたいというたったそれだけの。
 右手の薬指につけた華奢なリングと、同じ色の細い新品の時計に、爪の色は星空のような青紫。耳元で揺れる先端に小さな石のついたチェーンのピアスを指先で一度潰すように触って、息を吐く。
 隆文の会話と会話の間に挟まる少しの空白は、簡単にわたしの心を昔に引き戻して、消化しそびれた初恋も息を吹き返した。

「今日は、」
「……うん?」
「結構、楽しみにしてた」
「そんなに昔話したかったの?幼馴染なら雲母くんとか清水だっているくせに」
「え」

 ちょっとだけわたしの方を見た隆文が、目を開いて、ゆっくりと瞬きを何度もした。時が止まって、そのまま巻き戻っているみたいに何度も端正な顔が、こちらを見たまま、どうしてか不思議そうにしている。
 ごちゃごちゃと耳にいくつもつけられた銀色の鋲みたいなピアスを、サングラスに移るわたしの湾曲した身体の一部を、誤魔化すように見た。隆文は重たげな睫毛を何度も上下動させながら、わたしの頭からつま先までをしげしげと眺め倒す。
 鞄を握り直して、髪を耳にかけて、ピアスのチェーンが髪に絡まったのを見て、隆文が「ふ」と笑い声を上げる。

「やっぱ人間変わらねえな」
「なにそれ、ドジってこと?」
「俺が言おうとすると、すぐはぐらかすとこ」
「なにそれ」
「ま、今日は長いし。俺、明日は遅いからとことん付き合って貰うからな」

 カツン、彼の立てた靴の音だけがやけに鮮明に響きながら、わたしはその後ろをついていく。足の長さが違う、腹立つ、と思った瞬間に、夏服で廊下を歩く隆文の腕を引いた時の、まだこんなに穴の開いていなかった耳朶が、掴んだ腕の湿度が、一気に記憶から溢れ出た。あの頃はまだ簡単に隆文に触れたのだと、数歩ぶん距離の開いた背中を見て、腕を見て、自分のヒールを履いた足を見て、気が付いてしまう。
 大人になったら可愛くなったり綺麗になって隆文とどうにかなれるわけじゃない、ただ大人になったら余計に動けなくなるだけだった。言い訳が、照れが、戸惑いが、建前がどんどんと積み重なって、嘘がうまくなっていく。未だに真っ直ぐなパンチを打てる隆文を少しだけ羨ましいとも、でも同じくらい残酷だとも思った。
 夏の日差しを受けて暑そうに首筋に伝った汗を拭った十代の隆文も、読んでいた文庫本で自分の顔を仰ぐわたしもいない。冬の校門の前で部活終わりの彼を待つわたしも、そのわたしのことを見ないで帰っていく隆文ももういない。泥だらけの手でカメラがどこだか分かってもいないまま、親に向かってピースサインをしたわたしたちはどこにもいない。
 全部、戻ることも取り戻すこともできなくて、代わりに今からなにもかも、手に入れることができる。

「二日酔いだけは嫌だな」
「酒、弱いの」
「隆文よりは強い気がする」
「そりゃ楽しみだ」
「嫌な奴」
晶月も大概だろ」

 「失礼なんだけど」、一歩大きく踏み出したわたしは彼の腕を引っぱるようにして隣に並ぶ。「あと足長いんだからもうちょっとゆっくり歩いて。デートしたことないの?」と付け足すと、彼の胸元でチェーンのネックレスが揺れる。
 頭の上で聞こえる隆文の笑い声は、まるで真夏の風みたいに透き通ったまま、身体の周りを吹き抜けていく。笑い声をあげたままの彼は、いとも簡単にわたしが引いた腕をほどいて、彼の方から腕を簡単に絡め直させられた。エスコート、というか、女慣れしている、けれどそこに"ギンガ"らしさや隆文らしさはなく、どちらかと言えば"スバル"みたいな仕草。分かりきっていたけれど、ひとつの動きだけでそんな風に思わせられるとまでは考えていなかった。「どう」と、答えなんてわかり切っているのにスマートに微笑む隆文に向かって「まぁまぁ」と答える。簡単にすべての思い出が吐き気がするほどせり上がってきて、組まれた腕のせいで自分の身体に力が入らない。
 ヒールの音をなるべく立てないようにしながら、先程より歩幅を小さくしてくれている彼の隣をしずしずと歩いた。緊張しているわけじゃない、戸惑っているわけじゃない、ただ、取り戻すことはできなくても手に入れることができるのだという事実に驚いているだけだ。
 腕を組んだまま、彼の上着をそっと握ると、隆文が足を止めてこちらを見下ろした。まるで子どもを見るみたいに彼がわたしを見た後で、「会いたかった」、そう、多分、声が聞こえた。
 疲れた犬を無理に散歩させるみたいに急に早足になった隆文に、カツカツという下手な足音を立てながらわたしはついていく。
 組んだ腕も、上着を握った手も離さないまま。会いたかった、と心の中で、自分の声なのか隆文の声なのか分からないそれを繰り返して。