屈折率



 執拗な呼び鈴を無視し続けていると、今度はドアを叩く音が聞こえた。コン、コン、コン、と何度も繰り返し聞こえるそのノックの音すらも無視していると、ドアを隔てた向こう側から「電気ついてますけどー」と底意地の悪い声が聞こえる。相変わらずひどいタイミングでしか訪れることのない彼の顔を思い浮かべながら、よろよろと覚束ない足取りで玄関に向かいドアを開けた。相変わらずひどい生活を続けているから、彼がいつ来てもひどいタイミングである、という考え方もあるのだけれど。
 予想していたそれよりもずっと不服そうな顔をしていた春は、こちらを見て明らかに大きく目を見開いて、ただわたしを見ている。自分ではあまり気づかないけれど、彼は「また無くなってんな」と、鞄を持ったままの手で自分の頬を削ぐ仕草をしてみせた。そんなに目に見える程に表れてしまっているのだろうか、と指先で顎に触れてみる。いつもと同じ鞄と、反対の手に大量の食べ物が入ったコンビニ袋をぶら下げた春は、勝手に冷蔵庫を開けて、閉じて、不機嫌そうにこちらを一瞥した。

「ちゃんと食べてんのか」
「もちろん。冷蔵庫見ればわかるでしょ」
「なんも入ってねえけど」
「そりゃあ、ちょうど明日買いに行こうと思ってたから」
「手間、省けたな」

 コンビニ袋に入った出来合いの食べ物をどさりとテーブルに広げ、その袋が空になったあと、もうひとつのビニール袋があることに気づく。その袋の中には野菜と豆腐と鶏肉が入っていて、わざわざ彼がスーパーとコンビニに立ち寄ったのだとわかる。わたしの家であるはずなのに、手洗いとうがいを済ませたあと身軽な服装になった春が家にある一番大きな鍋をコンロに置いてまな板と包丁を取り出した。久しぶりに見るまな板も、包丁も、鍋も、なんだか全部が色褪せて見える。出来合いのコンビニの食べ物を黙々と空っぽの冷蔵庫に押し込んで、果たしてわたしはこれを本当に食べるのだろうかと考える。胃の中に入っている、入っているというのも違うかもしれないけれど、存在している水だけでは、彼にとっては物足りないらしい。
 わたしの身体を心配することをやめて欲しいと何度頼んでも、彼は家へやってきて、なにかを作る。多分、というか確実に“おいしそう”と思えないわたしがおかしいのだから、もうやめてほしい。わたしは、全てを止めていきたいと思っているし、いつの日か全てが止まることだけを望んでいるのに、彼の背中がまるで俺の許可を取っていないとひとり憤っている。春の許可なんて必要じゃないのに、電気を消して、ドアを開けないでいればいい筈なのに、わたしが彼を部屋に上げるのはどうしてなのだろう。

「春、」
「これ作ったら帰るから」
「そう」
「別にもっといてやってもいいけど」

 慣れた手付きで手際よく野菜が切られていく音を聞きながら、わたしはシャツの袖が捲られた彼の肌の色やがっしりとした腕のラインを眺めた。緩やかに消えていければ、春が野菜を切るこんな音を聞かずに済んだのだろうか。鍋にさらりと落とされていくいやに綺麗な鮮やかな野菜の入った鍋に火をかけようとした時、思わず声をかけていた。

「ありがとう」
「別にいいけど」
「……ごめんね」
「謝るならちゃんと食え、嘘とかつくな」
「ごめんね」

 食事をした、なんて嘘はつけるくせに彼のその言葉にはどうしてか嘘がつけなくて、ただ同じように謝ってしまう。振り返った春は少し眉を下げたけれど、怒るでも悲しむでもなく、真顔に戻ってわたしを一瞬だけ見てから、台所に向き直って鍋を火にかけた。換気扇を回すことも忘れず、野菜は気持ちがいいほど鮮やかな音を立てて炒められていく。小さく切られた鶏肉の油の匂い、スープの素は出来合いらしくそれとお湯が入ると、料理はふんわりと体に優しい匂いに変わっていく。身体がそれを本当に求めているのかもわからないまま、空っぽの胃を持ったわたしは、その鍋の中身になにも思うことができなかった。美味しそう、とも、美味しくなさそう、とも思わず、ただ黙々とスープを作る春の背中に申し訳なさだけが募っていく。

「喉、痛い」
「バカかよ」
「どうしたらいいのかな」
「知るか」
「ほんとだよね」

 くつくつと煮込む音を立て続ける鍋の中身を掻き回しながら、春が「俺がいんだろ」と言った。まったくだ、まったく、こんなに親切な彼がいるのに、どうしてこうもきちんと生きることができないのだろう。きちんと食べて、寝て、起きて、働いて、今まで意識せずとも問題なくできていたはずのことが、ほんのちいさなきっかけで途端にできなくなった。春が作るスープの匂いを嗅いで、美味しそうとも美味しくなさそうとも思わなくなってしまった。けれど、それが本当は優しい匂いであることも、美味しい食べ物であることもわかっている。もっとちゃんと生きていきたい。ちいさく浅い皿に出来上がったらしいスープを注ぎ入れ、テーブルにそっと置いてくれる。甲斐甲斐しくスプーンとコップに入った緑茶も並べられて、これでは誰の家かわからなくなるほどだった。

「いただきます」
「無理すんなよ」
「……うん」

 緑茶を飲むと喉がちょっとだけ痛んで、けれど胃がすかすかであることがよくわかって、空腹感もあるように思えた。白濁したやわらかい匂いのスープに口をつけると、ほんのりとした野菜の甘みとあたたかさを感じる。元から小さく切られているせいか、恐ろしいほど柔らかくなって殆ど噛む必要もなくなった野菜を一緒に飲み込んでみる。色素の薄い、ミルクティーみたいな色をしている春の瞳はいつだって迷いがなく強い意思のようなものが滲んでいて、見るたびにキャッツアイだとかの魔除けのパワーストーンを思い出すけれど、それを直接本人に言ったことはない。一口ずつ、ゆっくりと口に運んでいくと、それを眺めた春が「ごめんな」と言った。誰が悪いわけでもないはずなのに、わたしも春も、きっと謝る以外の言葉を忘れてしまったのだ。謝罪の言葉なんかよりもずっとずっと雄弁な彼の背中や、スープの味や、それを食べているわたしの身体みたいなものものに、きちんと目を向けたいのに。
 次に彼がやってくるときは、もう少しましな自分になっているのだろうか。かなしくなるほどに甘く柔らかく作られたスープを飲みながら、「だろうか」ではなく「ならなければ」と考え直して、また強くこちらを見つめるパワーストーンのような瞳をわたしは覗き見る。