昤々としてひかれるは



 いつもの店のいつもの席に彼女はいた。駅前の寂れた喫茶店とスーツ姿の彼女というかなり違和感のある組み合わせも既に見慣れたものだ。少し重みのある扉を押し開けると扉に付属した真鍮の鈴が喧しく鳴って、その音に反応するように「いらっしゃいませ」とあまりやる気のない店員の声が響く。俺の存在に気づいたらしいゆきがひらりと小さな手を挙げたので、それに応えるように左手を挙げた。

「よっ」
「よっ、じゃねえよ」
「なんか頼む?」
「腹減ってない」
「えー、珍しい」

 ゆきは大判の絵本かと間違う程に重たそうなメニュー表を開いて「ナポリタンとピザトーストどっちがいいかな」とのんびり呟いた。好きにしろよ、好きにした結果迷ってんの、どっちも太りそう、そんなこと聞いてない、といつもの応酬があって、一瞬だけメニューから目を離した彼女が俺を見る。大きな瞳の中にぼんやりと映る人影は紛れもなく俺自身のはずなのに、なんとなく俺ではない別のものを見ているような気がした。

「ナポリタンにした」
「俺アイスコーヒー」
「ん。すみませーん」

 クラシックが流れる店内にゆきの快活な声が響いた。通常ならば他の客に迷惑だろと諌める場面だろうけれども、生憎というか幸いというか俺たち以外に客はいない。だらだらとやってきた無気力の極みのような顔をした店員に注文を伝えて厨房へ向かう背中を見届けると、なんとも言えない沈黙がやってくる。決して愉快ではないけれど、心地悪くもない。

「ずっと気になってた」
「ん?」
「なんでいつもここなわけ」
「人少ないから」
「……なんだよその理由」
「だってそのほうがいいでしょ?」
「別に気遣わなくていいんだけど」
「わたしみたいなのと噂になったら困るでしょ」

 メニューのピザトーストを名残惜しそうに眺めながらゆきは言う。なにのためにどこを憂慮しているのか、わからないわけではないけれど理解することと納得することは別の話だ。俺は困らないけど、なんて呟くのは心の中だけで、口では「両方食えば」と鼻で笑ってやると「太るからだめ」と、そんなことを気にする必要なんて無い程に細い腕が伸びてメニューは元あった場所に収められる。それとほぼ同じタイミングで先程の店員がやってきて、当然のように俺の前にナポリタンを、ゆきの前にアイスコーヒーを置いてから透明の筒に丸めた伝票を突っ込むと「ごゆっくり」とだけ言いカウンターへ戻っていく。ゆきは最早慣れた手つきでナポリタンの皿とアイスコーヒーのグラスの位置を交換すると、いただきますとまた快活な声を上げてカトラリーケースからフォークとスプーンを手に取った。

「仕事、休めたわけ」
「午後半休とった。春は?」
「今日は非番」
「ふーん」
「……何だよ」
「警察官も意外と暇だよね」
「うるせぇよ」

 冗談だってと肩を竦めると目の前で湯気を立てるナポリタンに頬を緩ませて「美味しそう」と呟く。
 何か、を食べている時の彼女を見るのが好きだった。昔はそんなこと露程にも思わなかったけれど、拒食症かと疑う程に何も食べられなくなってみるみる不健康に痩せていく抜け殻みたいな彼女の姿を見てしまっていたからかもしれない。「ひとくちいる?」とゆきがパスタを巻きつけたフォークを差し出してきて、腰を上げて身体を前に傾けようとしてから、やっぱり腕を伸ばしてそのフォークを手に取った。自分が作ったわけでもないというのに「おいしいでしょ」と自慢気に俺の答えを待つゆきに対して「うまい」とだけ呟くように返せば心底嬉しそうに笑う。

「春、」
「ん?」
「ありがとね」
「……なんだよ急に」
「なんとなく」
「早く食って行くぞ」
「うん」

 テーブルに画面を伏せて置いていた携帯をひっくり返して指を滑らせると、ロック画面に14:04という表示が光った。ゆきの隣の椅子には仕事用らしい鞄とささやかなラベンダーの花束が置かれている。先程からほんのりと鼻先を掠める匂いの正体はきっとこれだろう。ラベンダーが最も美しく咲く季節はとうに過ぎているけれども、こいつはこの花束をどこで手に入れてきたのだろうか。残り少ないアイスコーヒーを飲み干してグラスの水滴を指で拭うと、いつの間にかぺろりとナポリタンを平らげたゆきが流れるような手つきで伝票を取り上げながら立ち上がって「ここは払います」と悪戯っ子のように目を細めた。一度言い出したら聞かないことを知っているから、好きにすればと吐き捨てるように呟いてから先に外へ出る。季節柄か最近降り続いていた雨はぱたりと止んでいて、夏特有の不快な湿気を孕んだ空気がべたりと肌に纏わりついた。
 あいつがいなくなって、今日で五年になる。「お待たせ」と店から出てきた彼女の瞳に、やっぱり俺は映らない。



 「ラベンダーの花言葉、知ってる?」半歩先を歩いていたゆきが不意にこちらを振り向いて俺に尋ねる。「知らない」俺は咄嗟に嘘をついた。その嘘にこいつが簡単に騙されてしまうことを知っていながら。少しだけ悲しそうな目をしたゆきの唇がもう一度動いて、そこで漸く目が覚めた。ぼんやりとした景色の中にさっきまで夢の中にいた彼女が映って、ふわりとラベンダーの香りに包まれる。あんな夢を見たのは車内に充満するこの香りのせいだろう。窓の外には見覚えのある景色が広がっていて、大きく息を吸い込むとラベンダーの香りに混じって磯の香りがほんのりと感じられた。なんでもいいが強いて言えば海が見えるところがいい、なんて、随分あいつらしいなと思ったのを覚えている。

「あ、この辺りで止めてください……おいくらですか?」
「俺払う」
「え、いいよ。私がタクシーにしたんだから」
「いいから、はやく降りろ」

 不服そうなゆきの背中を押してスラックスのポケットから財布を取り出す。渋々といった様子でゆきがタクシーのドアを開けると、より濃くなった磯の香りが車内に流れ込んだ。淡々と支払いを済ませてタクシーを降りると、人の良さそうな運転手が「どうも」と穏やかな笑顔を浮かべて会釈し去っていく。ふたり分の靴音が遠くから聞こえる波の音に溶けて、俺の半歩先を歩くゆきは時折何かを確認するように後ろを振り返った。

「なんか、今日服地味じゃない」
「TPOってもんがあるだろ」
「たまにはまともなこと言うじゃん」
「お前絶対バカにしてんだろ」
「してないしてない、感心しました」
「それをバカにしてるって言うんだよ」
「別にいつもの格好でもよかったのに」
「……俺がよくねぇんだよ」

 いつものカジュアルなジャケットを羽織らないだけで随分と見た目の雰囲気は変わるものだ、黒いネクタイを結んで第二ボタンまで閉めたシャツの胸元を緩く握ると「変なの」とゆきが笑って、でも似合ってるよ、と追いかけるように後から飛んでくる。そういうところが嫌いで、けれど、どうしようもなく好きだった。もう随分と前から。

「水汲んでくるから、先行ってろ」
「うん、場所わかる?」
「もう覚えた」
「そっか」
「じゃあ、後で」

 水汲み場の石段に座って蝉の大合唱をBGMに時間を潰す。なんとなく二人の時間を邪魔してはいけない気がして、毎年いつもこうしていた。目を閉じると今でも鮮明にあいつの姿を思い出せて、あいつだけ歳をとらないことがなんとなく癪だった。俺の記憶の中にいるあいつは、いつも葉巻なんてふかして格好つけている。一本8500円だとかいう一万円近い使い捨て嗜好品にしてはあまりにも贅沢すぎる葉巻を半分も吸わずに揉み消す姿すらも憎たらしいほどに様になっていて、他にも印象深い姿はいくらでもあったはずだというのに、思い出すのは何故かその姿ばかりだ。ぽたりと頬に冷たい感覚が走って、それが雨だと気づくのに少し時間がかかった。泣いているのかもしれない、と思ったからだ。雨の予報ではなかった筈だけれども、すぐに雨脚が強くなる。住職に傘を借りてゆきの元へ向かうと、彼女は雨宿りをすることもなくただじっと何も言わない石の前にしゃがみ込んでいた。傘を傾けると子犬のように濡れた瞳がこちらを見上げて「水、いらなかったね」とひそやかに笑う。へらりと、困ったように、せつなげに、ひどく可憐に。確かな寂しさを内包させたか弱い声で。取り残されているのは自分だけではないと思った。瞳や頬を濡らす水が雨なのか涙なのか、俺には分からなかったけれど。

「……なあ、」
「うん?」
「代わりでもいい、って言ったこと、覚えてるか」
「……うん、覚えてるよ」
「そんなのいいわけないって怒ってた」
「怒るでしょ」
「知ってると思うから言うけど」
「うん」
「好きだ」
「……うん」
「俺、死なねぇし」
「……わかってる」
「風邪もひかない」
「ふ、風邪はひいていいよ、べつに」
「それくらい丈夫って意味だよバカ」

 バサバサと大粒の雨が傘に跳ね返る音が響く。ここで言おうと決めていたのは、隠しちゃいけないと思ったからだ。俺がいつかそっちへ行ったら一発殴ってもいい、だなんて今時月9の恋愛ドラマでも言わないようなむず痒くクサい台詞も今だけはきっと伝えられる。今までは伝えようなんて考えたことすらなかった。ゆきがずっと大事そうに握りしめていたラベンダーの花束を石の前にそっと手向けて、それからゆっくりと唇を動かした。

「ラベンダーの花言葉、知ってる?」
「……あなたを待っています、だろ」
「それもそうだけど、もうひとつ」
「何」
「許しあう愛」
「……へえ」
「いなくなったこと許す代わりに、自分のことも許すことにした」
「どうやって」
「もっと幸せになってやる」
「……ふ、お前っぽいじゃん」
「だからさ、」
「おう」
「幸せにしてよ」
「……どういう意味」
「そのままの意味だけど」
「……ずるいよ、お前」

 驚く俺の表情がよっぽど面白かったのか、ゆきはくつくつと小刻みに肩を震わせて「変な顔」と眉を下げて笑う。彼女の左肩が濡れていることに気づいてもう少しだけ傘を傾けると、肌にぺたりと張り付いた白シャツが少しだけ心地悪くて思わずくしゃみが出た。「風邪ひかないんじゃなかったの」とゆきがもう一度笑う、その表情が今までに見たことがないくらいに晴れやかなものだったから、どうしようもなく心臓が撓る。
 長い睫毛が影を落とす瞳には、彼女を愛おしそうに見つめる俺の顔がはっきりと映っているのが見えた。