薤露青



 深夜、ほとんど最終といっても過言ではないその電車に揺られながら、座れたことが奇跡だなぁなんて思いつつ後頭部を窓ガラスに当てた。ごつ、と静かな音が頭蓋骨へ直に響かせる。初夏といっても昼間は三十度を超える地域もあるけれどそれなりに涼しく、ガラス越しに感じる冷たい感覚に心地良さを感じて目を閉じた。
 がたん、ごとん、がたん、ぽつん、ごとん。ひとつ混じった音に夢想を取りやめて振り返ると、ぽつん、というその音は氷山の一角で、そのかわいらしく間の抜けた音が幻想だったかのように、たちまちに強く叩きつけるような音が電車全体を包み込んだ。今は改装してなくなってしまったけれどもディズニーシーのアトラクションにあった台風の目の中もこんな感じだったな、なんて他人事みたいに茶化している場合ではなかった。駅前にコンビニはないし、駅の中の店舗もぎりぎり閉まっている時間帯だ。こうなっては濡れずに駅から直通で傘を買う方法などないに等しい。
 仕事で愛用していたもう一足の靴はヒールが擦り切れていたから先日修理に出していて、明日の仕事終わりに引き取る予定だった。これでは明日履く靴もない、というか、もう、スーツもちょっと、鞄も、ああ、もう。考えても考えても、わたしの苦悶など知ったことではないと言わんばかりに雨は強まる一方で電車は進んでいく。
 この突然の大雨でも止まることなく何事もなく進む電車は素直にすごいけれども、いつもとなにひとつ変わらないアナウンスで恐るおそる電車を降りると電車とホームの隙間だけが集中豪雨に曝されていた。足元もおまけ程度に濡らされる、まるでこれが序章だと嘲笑うように。普通に最悪だ。かろうじて被害に遭っていないホームの真ん中にあるプラスティック製のベンチに腰かけて、先程夢想中に通知が来ていたことを思い出して携帯を開く。こんな時間にわざわざわたしに連絡してくるなんて、と思いながらメッセージアプリを開くと案の定というかなんというか春からだった。仕事終わった、そっちは、と疑問符も素っ気もない文面に目を通して、最寄りの駅で立ち往生していることを伝えると一瞬で既読の文字がついて携帯が震える。加藤春、と相変わらず女の子みたいに可愛らしい三文字がぼんやりと画面に浮かび上がった。

「あ、もしもし、春?」
『どこにいんのお前』
「駅の、ホームのベンチ」
『早く出てこい』
「……へ、」
『へ、じゃねぇよ!改札!でかい方な!』

 ざあざあとまだ降り止む様子のない雨の音を左耳に、そしていつの間にか規則的で無機質な機械音だけを響かせる携帯を右耳に当てて、どんどんと足元が冷えていくのを感じた。ほんとうに、いやまさか、どうして、なにも状況がわからないまま、とりあえず階段を上がって出口へ向かう。既に閉まっている駅ナカのコンビニ、狭い方の改札は通行時間を終えていて、床はびしょびしょで折れた傘やら濡れて真っ黒になった新聞紙やらなんらかのゴミが散らばっている。
 ひどい有様から目を背けて顔を上げると、不機嫌です、と全面に出した顔の春が改札の前でわたしを待っていた。鞄にくくりつけてある定期入れのリールを勢い良く伸ばして改札を通り抜け、春がひとりで入るにはいささか大きい、びちゃびちゃに濡れた透明のビニール傘一本だけを持った彼のもとへ向かう。春の身体が濡れていないのは傘が大きいせいだろうか、傘を持っていなければ外が晴れだと言われても微塵も疑う要素がないような姿で春はこちらを見ている。なにを考えているのかわからない、というか、あんまり大したことではないようなことを真剣に考えているみたいな瞳。砂糖をたくさん入れたカフェオレみたいな、丸くて透き通って、もしもこういう琥珀色のガラス玉があったら飛ぶように売れそうだ。視線が重なり合ったとき、春の瞳の強さになぜか動揺してしまったわたしはひどくありふれた疑問を口走っていた。

「なにしてんの、こんなとこで、こんな時間に」
「偶然だ、偶然」
「偶然とは」
「マジでお前傘持ってないの」
「今日予報なかったでしょ」
「あったっつーの、バーカ」
「うそ……」

 先程までの不機嫌さはやはりポーズだったらしい、春が呆然とするわたしを見て、ぶふっ、と小学生のように噴き出した。どれほど間抜けな顔をしていたのかはあまり考えたくはないけれども、毎晩就寝前に携帯で天気予報をチェックしては荷物を入れ替えている、比較的しっかりしていると自負していたわたしにとってはなかなかに衝撃的な事実だった。

「なぁ、そんな不細工な顔してないで、飯行くぞ」
「……ああ、うん、なに食べる」
「ラーメン」
「どこの?駅の下のとこはもう閉まってるよ」
「ハァーじゃあファミレスでもいいわ、腹減った」

 結局、この駅に春がいることの説明はないまま会話は進んでいき、エスカレーターを降りながら向かう先は歩いて五分もない程のファミリーレストランに決定した。二十四時間営業している数少ない店に感謝しながら、そしてこんな深夜に食事を摂ることの罪悪感とこの大雨の中で帰る面倒を天秤にかけながら、駅の出口、屋根が終わるぎりぎりのところへ辿り着く。まだ雨は止むことを知らず、春の持つ傘はたった一本。縁からも伝っていく雨の滝のような量に少し慄きながらちらりと春の方を見ると、彼も困惑しているのか見たことのないような顔で雨空を見つめていた。

「大丈夫?っていうかここまでどうやって来たの」
「タクシー。しかもそんときここまでじゃなかった」
「そうなんだ」
「このまま待ってても止まねぇし行くぞ、限界だ」

 あまりにも真面目に「限界」なんて言葉を口にするから、少年漫画にとても似合いそうなきりりとした瞳と言葉のギャップに少し笑みがこぼれた。けれど本人はいたって真剣に傘を開いた後、わたしの手首をがっしりと掴んでずんずん雨の中を歩いていく。肩と肩がくっついて、わたしは掴まれていない空いている方の手で濡れないように鞄を抱きしめた。春は右手で傘を持って、左手でわたしの手首というか手首と肘の間あたりを掴んで進んでいく。足元は一秒も待ってくれないままどんどん冷えていくのに、春の掌の感覚だけは冷たくも熱くもなく、けれどなによりもはっきりとした輪郭でそこにあった。ファミリーレストランの煌々としたあかりが目に入るまでの五分ほどの時間、わたしと春は会話をすることもなく、ふたりでひとつになっていた。
 なんというか、愛とか恋とかそういうあまやかなものではなくて、二人三脚を極めて運動会に出たような感覚。そして目の前の歩行者信号で立ち止まったときに彼が掴んでいた手を離してぐっとわたしの腰に手を置いた。いや、置くというよりは引き寄せるだとか内側に押し込めるだとかの方が近いような気がする。そして「出てるっつーの、バカ」と前を向いたまま呟く。手はまたわたしの手首と肘の間を掴んで、警察官である彼だからそう思うのか、どこか連行されるような気持ちでファミリーレストランへ歩みを進めていった。降り止まない雨の音を聞きながら、殆ど濡れなかった左肩のことを、入口のちいさな屋根の部分で傘を振って水滴を落とす春のしとどに濡れた右肩のことを、そして、先ほどのくっついた肩や手のぬくもりについて考える。

「今日はおごるよ」
「はぁ?そんなんいらねぇわ」
「ウィッス」
「その女らしさのない返事を直せ、まず」
「春、ありがと」
「……早く行くぞ」

 傘を床濡れ防止用のポリ袋に突っ込んで、春はずかずかと階段を上っていく。わたしがまだ辿りついていないというのに、店員さんに二名ですと言っているのが見えた。かわいくないのは確かにわたしなんだけれど、春もなかなかかわいくない男、いや春のほうがよっぽどかわいいか。よくわからない。ただ土砂降りも、春のきまぐれも、わたしの心も、すべてはいつか起こることだったのかもしれない。
 帰りはお互いにタクシーだろうか。それでも乗り場に行くまでまだ雨が降っていたらいいな、これから春となにを話そう、そんなことを考えながら濡れた階段をゆっくり上る。
 いつの間にか愛おしく触れてしまう右肩のことには気づかないまま。