春が「俺は勧めねぇけどな」と言って焼酎を煽る。彼の言葉はいつも鋭く、的確で、悲しくなるほどに正直だった。自分に対してもわたしに対しても正直に言葉を連ねてくれる優しさに対して感謝をするときもあるけれど、そうしなくていいのに、そうしなければわたしも、そして彼自身も傷つかずに済むのに、と思うときもある。
それでも、なにもかもを理解した上で彼は揺らぐことなくわたしに向かって一番正しい言葉を一番わかりやすく告げる。わかりやすさというのは往々にして攻撃性を孕んでいるものだというのに、とストローに口をつけ、やけに濃くて渋い烏龍茶を吸い上げながら考えた。いつもよりも数段強い彼の論調は、わたしにその人を紹介した責任みたいなものも一因としてあるのだろうと考えている。
「でも、」
「絶対幸せになれねぇぞ」
「わたしの幸せの定義を決めるのは、春じゃない」
想定していたよりもこの場所を包んでいた空気は固く、その空気をわたしが今いっぱいの力で破壊したのがわかった。眉間にぐっと皺が寄り、下唇が噛み締められる。
元より、今日ふたりで話したいと声をかけられた時点でこういう話になると心構えはしていた。それでも春の言葉は想像通りに鋭く、誠実だからこそ、その言葉ひとつひとつの正しさに募るのは純粋な苛立ちだけだった。心配をされている立場の人間が返す言葉ではない。そうとわかっていても迸る感情は抑えきれず、放った言葉はただ真っ直ぐに目の前の人を傷つけてしまっていた。
春の顔を見ても、その恋は止められないのだろうか、と問いかけたところで、恋は始めたくて始めるものでも止めたいから止められるものではない。たぶん、我慢するのが大人なのだろう。傷つくとわかった時点で、遊ばれるとわかった時点で身を引くのが一番大人なのだ。布団にでも包まって、好きだという気持ちが薄れてぼやけていくまで考えないようにすればいいだけ。そもそも、わたしの幸せの定義を決めるのは春ではないけれど、今のわたしが幸せかどうかと訊かれたらまったくそうではない。こんな風に傷つけ合って、だからといって代わりに恋が手に入るわけでもない。なにもかも、どこに歩き触れてみたとしても世界は棘だらけで、手のひらも足も、なにもかもが血に塗れている。愛することは別に決して幸福の証明ではないというのに、どうして愛や結婚が幸福の最終形態だとされているのだろう。こんなにも痛く、苦しく、傷つけ合ったり傷つけられたりすることが幸福に繋がっているはずがない。だからといって誠実で健全な友人に正しく静止を受けようとわたしはその人を好きになることをやめることができずに、幸福はますます遠のいていくばかりだ。
「俺の勝手かもしれないけど、見てらんねぇ」
「じゃあ、見ないでいいよ」
「……お前な」
「春さ、そんな、責任感じないでいいんだよ、たかが恋愛じゃん」
たかが、と付け足してみて、その恋愛にわたしも春も馬鹿みたいに振り回されているのがひどく滑稽だった。くたびれきったわたしたちの間に流れる空気は、いつの間にか怒りでも悲しみでもなくなっていた。
どうしてわたしがその人を好きになったのか今となってはきっかけなんてよくわからないけれど、気が付いたら好きになっていた。大体の恋愛がそうであるように思うし、行き場なんてない。春が気に病むことでもないんだよ、と本当に何度も繰り返した言葉をまた言ってみると、春がちいさく笑った。唇がいびつな形に歪められて、ゆったりとした呼吸はぬるく、伏せられた睫毛の影がやけにゆったりと動く。正しさは、凶器だ。
彼のその唇が開かれる前に、わたしは逃げなくてはならなかった。いや、本当ならここに来るべきでもなかった。とどめを刺して欲しかったのだろうか、道連れにしたかったのだろうか。わたしが行き止まりになる代わりに、わたしをあの人に出会わせてしまった春にも一緒に、行き止まりになって欲しかったのだろうか。もしそうならば、無意識下の策略は成功していて、彼の唇が、喉が震えて、席を立とうとするわたしの身体に楔を打ち込んだ。
「そんな善人に見えるなんて知らなかった」
「結構な善人だよ」
「いや。自分の為にしか動けねぇよ」
「そう?」
「そう。俺の方がずっとゆきのこと見てたのにって」
彼の言葉は、先程の声よりずっと冷たく、どこを向いても身体中に鈍く突き刺さり抜けようとしない。なにかを言葉にする代わりに、氷が少し溶けたというのに味が薄まることもなく未だに酷く苦い烏龍茶を飲み干して、テーブルに視線を落とした。左耳につけた華奢なチェーンのピアスが視界の端でゆらりと揺れて、店の光も同じようにぐらり、と大きく揺れた気がした。
「じゃあ、今、わたしと付き合ってくれるの?」
春は、そんな結末を求めてはいないだろう。確信に満ちた声でわたしはそう問いかける。こと恋愛に於いて誰かが誰かの代わりになるはずなんてないと、わたしも、そして春も知っている。こんなことは誤魔化しにも気休めにもならない、もちろん救いにだってなるはずがない。挑戦的に彼の大きな瞳を見つめると、彼は色素の薄い黒目の奥底までわたしを引きずり込むように、ただこちらを見つめていた。少しの沈黙と、放った言葉の無意味さによる虚脱感。空のグラスを持ち上げ、ストローが揺れる。
「付き合う。当たり前だろ」
春は今までに見たこともないような顔で、茫然としたわたしの顔を見ていた。それから躊躇うこともなくテーブルから身を乗り出して手を伸ばして、わたしの頬を、そして耳朶を撫でる。彼の掌にある肉刺がちらりと視界に入って、分厚い彼の掌の温もりは頬にじんわりと残って離れようとしない。
わたしは春を男の人として愛していない。当たり前のことなのに、掌の感触に伴う感情の動きがそれを確実に感じさせる。そんなことすらわかりきった顔で「今日のピアス、似合ってる」と春は言ってアルコールで唇を濡らした。
行き場のない感情ばかりがぶつかって、絡まって、解くことが出来ない。なぜ果敢に、勇敢に、悲しみばかりのその場所に、踏み出すことができるのかわからない。だというのに、自分がその手を取るであろうこともわかっていた。どんなに虚しくても、無様でも、滑稽でも、たったひとりで生きていくのは辛すぎる。
「……身勝手でごめん」
「そんなん、俺もだ」
「春は、優しすぎるよ」
「買い被りすぎだろ」
目尻を下げた春に目を合わせると、彼が親指で簡単にわたしの目の下を拭ってみせる。
「泣きたくなったら、いつでもこうしてやるから」
親指の腹のあたたかい感触がふわりと離れていく瞬間、名残惜しい、と痛烈に感じた。わたしはこれからたくさんの涙を流して、それを彼の親指や唇がすべてを拭い去ってくれるのだろう。あたたかく、やわらかく、力強い光のようなもので。平生聞くことのないあまりにも慈愛に満ちた彼の声に「ありがとう」と返した声は掠れきっていて、それでも彼はちいさく頷いてみせる。
何事もなかったように差し出されたドリンクメニューを受け取りながら、わたしは、いつの日か零れるであろう彼の涙を拭うことが、涙を止めることができるのか。どんなに考えを巡らせても、まったくわからなかった。