永訣の朝



 真っ黒に塗り潰された闇の中で、目印は大きな背中だけだった。
 砂浜に足を取られても彼は止まらない。たまにこちらを振り返って、目だけで少し笑ってまた歩く。足元をゆっくり、夜の海が撫でていく。
 春が歩き出してから何分経ったのかわからない、どこかもわからないこの海辺は端から端まで歩くには広すぎる。もしもひとりきりここに放り出されたらば、狭っ苦しい押し入れに閉じ込められた子どものような気持ちになることだろう。
 ビーチサンダルでただ一心不乱に歩く春の二歩くらい後ろを、わたしはひたすらについていく。親鳥についていくひな鳥のように。

「早いよ」
「体力ないな」
「歩幅が違うんだよ」
「そうか?ゆきの方が足長いんじゃねぇの」
「そんなわけない、春のが背だって高いし」
「それは仕方ねぇだろ」

 砂が、薄い波によって足に満遍なく広げられていく。夜の中でぼんやり浮かんでいる自分の伸びきった爪を、点々と指の隙間から甲にまで広がった砂を、立ち止まってこちらを見る春を、順番に見た。春は、そっとわたしに手を伸ばす。
 美女と野獣の手を取り合ってお城の中で踊るシーンを、この前金曜ロードショーで見たことを思い出した。画面の向こう側でふたりはとてもきれいに、まるで小箱のオルゴールの中で回る人形のようにくるくるくるくる、ひたすら踊っていた。真っ黄色のドレス、豪奢なシャンデリア、優美な装飾品と、上品な音楽に囲まれて。
 けれどわたしたちは、ただの海辺に自ら赴いて、自ら取り残されている。春は野獣でもプリンスでもないただの男の人で、わたしも、プリンセスではなく無力な女だった。
 春の大きくて少し肉刺のある手のひらに自分の手のひらを重ねると、そっと包んでくれる。夏の暑さで少し汗ばんだあたたかい手が、わたしがひとりきりではないことを証明してくれているような気がした。もしもこの温度が存在しなかったら、この海辺も、足の冷たさも、砂の不快感も、目前の闇に浮かぶ春も夢の出来事のように思えただろう。

「まだ明るくならないね」
「あと二時間はかかるな」
「あれ?春、今時計持ってたっけ」
「体感」
「……テキトー」
「いいだろ、そんなんもう」

 目を細めて、春がくしゃりと笑う。泣いてるみたいに、うれしすぎて堪えきれないみたいに、困って困ってどうしようもないみたいに。ただ春はそのままわたしの手を握って、ゆっくりと歩きだした。海側に立つわたしはすぐに打ち寄せられる波に足を取られ、安物のビーチサンダルは足の裏にぺたりと張り付き、それでも歩くことを止めない。止まったら、打ち寄せる波と同じように現実が後ろからわたしたちを食べ尽くしてしまう。春もきっとそう思っているから手を繋いでくれて、ただ砂の道を歩いているのだ。
 太陽が昇るより先に、わたしたちはゆっくりと海辺を歩き終えるだろう。汚れた足で春の車に乗り込んで、車の中で少しばかりの睡眠を取って、両足に絡みついた砂を取りきらないまま、わたしと春は自分の場所に戻る。

「太陽、あと五時間くらい昇らなくてよくない?」
「五時間、歩けるならな」
「無理!」
「わかってるなら、……いや、ま、五時間、かぁ」
「うん」
「また来りゃいいだろ、ここでも、ここより広いとこでも、なんでも、俺と」

 彼のぬるい手を強く握りしめて、先ほどより大きな声で頷いた。「良いお返事で」まるで幼稚園の先生のように春は僅かに口角を上げて微笑んで、また歩き出す。
 闇の中で、ぼんやりと浜辺の終わりが見えてきた。
 きっと春も気づいているけれど、終わりなんてないような顔で前を見ている。だから、わたしも気づかないふりをして、砂に足を取られているふりをして、ゆっくり歩く。この夜が一秒でも長く続くように。