シグナルとシグナレス



 言葉なんてなかった。動いたのは驚いて瞬きをしたわたしの瞳、感じたのは彼の唇のひたむきな熱、たったそれだけだった。

「ビールでよかった?」

 ああ。春はテレビのリモコンを片手に頷いた。さんきゅ、なんて軽い口吻だけれども普段はあまり聞かないから少しだけどぎまぎしてしまう。わたしはテーブルに缶ビールとグラスを置いてキッチンに戻った。コンロの火にかけたフライパンはいつも賑やかでお喋りだ。どきどき、わくわく。心の中にもうひとりのわたしがいる、目には見えないけれど確かに存在している、そう言いきれるくらいに気持ちはどこか裏腹だった。フライ返しを使って軽く持ち上げるように裏面を覗いて様子を見るとなかなかいい感じで。上手に羽根つきで焼けたら、うまくお皿に乗せられたら、白黒つけたいことがある。
 わたしが次にリビングに戻ったときには、缶ビールの一本がすっかり空になっていた。まだ?そう言っている春の表情はアルコールが入っているくせにやけに子供みたいで思わず笑ってしまう。冷蔵庫から缶ビールを2本、片手では持ち切れない500mlを彼に渡してから、ほんの少し緊張の瞬間。火を止めてフライパンごと慎重に、でも大胆にひっくり返したら、同時にわたしの覚悟も決まった。

「焼けたよ」

 どん、と大皿をテーブルに置いたら春は既に箸を持っていた。
 告白された。そう言ったのはほんの数時間前のことだった。あっそう。春からすぐに来た返事は絵文字もスタンプも無くて、その一言から伝わることなんて、なにひとつなかった。別に根掘り葉掘り聞かれたかったわけじゃないし、背中を押してほしかったわけでもない。けど、確実にわたしは無意識下で彼からの、なにかしらのレスポンスを求めていた。なにか、というのは多分、きっと。
 なんとなく晴れない気持ちのままでいたわたしの家のインターホンを鳴らしたのは、さっき悩み事を打ち明けたばかりの春だった。餃子買ってきたから食おう。スーパーのレジ袋をわたしの前に差し出して、あたかも勝手知ったる自分の部屋のように靴を脱ぎ捨てて足を踏み入れる。手渡されたビニール袋の中を見たら業務用サイズが入っていたものだから少し笑ってしまった。

「付き合うわけ?」

 二個目の餃子を食べて、次のものに箸を伸ばしながら春はわたしに訊いてきた。気にかけてくれているんだとは思う、不器用な彼なりに。だからこうして手土産と言うには怪しいとしてもなにかしらの献上物を持って来てくれたんだろうし。けれども、このタイミングで触れて欲しくはなかった。自分勝手かもしれないけれど、ただ隣にいて放っておいてくれ、だなんて。そんな不毛なことを望んでいたのかもしれない。

「……わかんない」
「なんだよそれ」
「わからないもん」
「そいつのこと好きなわけ?」

 箸で餃子の羽根を割ったらぱりりといい音がして、うまくできたでしょ、って本当は得意顔したいのに、睫毛を伏せたまま彼の顔を見ることができなかった。口に入れても餃子の味がしないくらいに、とにかく居心地が悪い。ゆっくり時間をかけて飲み込んでからまた、わからない、と先ほどと同じ内容を繰り返したわたしに春は続けた。

「じゃあ断りゃいいだろ」
「でも、そういう感情はない、けど良い人だから」
「お前は相手が良い人ってだけで付き合えるほど器用じゃねぇよ」
「……そうだけど」
「じゃあ何がお前の中で引っかかってるわけ?」

 わたしは返事をしなかった。本当は心の奥底に沈殿している足枷に気付いているのに。沈黙を破ることなく黙々と餃子を食べ進めて、わたしの家にある一等大きな皿に山盛り乗せた餃子が半分くらいなくなったところで、炊飯器から炊きあがりを知らせる音楽が流れてきた。普段から聞いているそのメロディは底抜けに明るくて、今の空気にはあまりに場違いで、腑抜けたわたしは深呼吸してから立ち上がった。

「……ご飯炊けたよ。いる?」
がいるなら、ついでに」

 食器棚からお茶碗をふたつ。わたしのものよりひと回り大きな春のお茶碗は、わたしがひとりで勝手に選んで買った。それに対して彼は感謝を伝えることも迷惑そうな顔も見せなかったから、それなりに納得はしてるのだろうと思う。そう、勝手に思っている。
 気付いたときには既に、心の中に春がいた。そんな彼を、ひとりのわたしは大切にしようと言う。打って変わってもうひとりのわたしは、切り捨てて消してしまえと言う。わたしの心にはいったい何人のひとが住んでるんだろう。
 キッチンでお茶碗にご飯をよそいながら、なんでもないかのように振る舞って春の名前を呼んだ。きっと顔を見たら言えないから視線は手元に残したまま、せめてもの誤魔化しにと背筋を伸ばして声をかける。

「春は、なんでわたしにキスしたの?」

 今更だ、と春は思うだろうか。けれどもわたしは、ずっとそれが、それだけが引っかかっていた。あの日から、思い出すたびにこの唇は自分のものじゃないみたいに熱くなって、一緒に居ても、些細なことにどぎまぎしてしまう。どんなに消そうとしても、消えることはない。まるで呪いだ。恋の呪いは消えることがない。それは魔法のように、はたまた後遺症のように。この思考回路がなりゆきなのか、男女ならば避けられない道なのか、明確な答えを出せるほど大人じゃない。

「ねえ」

 あまりに返事がないから、意を決して振り返った。なんとか言ってよ。そう言いたかったのに、彼がいつの間にか真後ろに立っていたものだから驚いて声が出なかった。わたしよりずっと背の高い春を見上げる。その鈍く光るセピアの瞳に捕まったら動けなくなることは、あの日から知っていた。

「……分かんねえの?」

 目を閉じることすら、かなわなかった。あの日のぬくもりを辿るように柔く唇がぶつかる。空いた手は彼のワイシャツの袖をゆるやかに掴んでいた。わたしはまだ一滴もアルコールを摂取していないのに、身体中が痺れて頭がくらくらする。触れる熱から、どうあがこうと逃げられない。お茶碗を落とさなくてよかった、と頭の隅っこでぼんやり思った。

「……春のばか」
「分かってんだろ」
「春がばかだって?」
「バカヤロウ」
「……わたしは春のこと、好き、なのに」
「……じゃあお前に好きって言ってきたヤツに今すぐ連絡しろ。無理って」
「突然の俺様!」

 春はわたしの手からお茶碗を浚うように奪い取ってリビングへ戻って行った。あーあ餃子冷めたわ。ため息混じりに言いながらも、きっとまだ全然足りていないんだろうし、今からふたりのこと、向き合って、ちゃんと話すのかな。なんて考えたらわたしは少しだけ嬉しくなった。頬に添えられた手も体温を分け合う唇も、きっと美しいって、今ならそう思える。しんなりした餃子の羽根も、きっと今なら美味しくいただけるだろう。