マグノリアの樹



 できない約束をしないで欲しい、と望むことはそんなに傲慢だろうか。
 ほとんど決まった時間に仕事が終わらないとわかりきっていたはずの彼が、絶対に今日は会えるようにする、と豪語した時点で信じるべきではなかったのだ。それならば大人しく、当分は会えそうにないと言葉にしてくれた方が変に期待をしなくてもいい分裏切られたような気持ちになることもなく、ずっとずっと楽だとわたしは思う。
 仕事が長引いている、という過去に何度も見たありふれた連絡に了解の一言を返して、読みかけの本をキリのいい所まで読み終えたあと、冷めきってしまっている紅茶をぐっと飲み干して立ち上がった。カウンターに食器類を返した後で、どこかへ行こうと考えながら、どこへ行くべきかを逡巡する。
 ひとりでも、ふたりでも、どこにでも行けたはずなのに、いつの間にかひとりで出かけることの方がずっと楽に思ってしまっている。映画も、買い物も、食事も、共有したかったはずのことが共有したくないことに変わっていく。わたしは変容していき、彼も変容していき、そうすると、わたしたち、というものも同じように変容していくのだった。
 ひさしぶりに新しい服を買って、夕食は簡単に家で済ませてしまおう、と思いながら歩き出す。綺麗に磨き上げられたヒールの靴音を聞きながら暮れていく街並みの奥に入っていくと、自分がなんでもなくなった心地よさばかりがいっぱいに広がった。考えるのをやめることと同じ、街並みに同化する作業に過ぎない散歩をしていると、ふとすれ違うカップルと目が合った。羨ましい、とその一瞬はきちんと思ったけれど、それは臆面もなく愛し合えることが羨ましいだけだった。どうしてか、愛していることも、愛し合うことも、愛していたことも、すべて、今となってはきちんとした感情に結びつくことはない。
 冷たい冬の空気と匂いを肺にめいっぱい押し込んで、ふらふらとショーウィンドウを眺め、ぼんやりと歩いていく。携帯が鳴ったのは、寒さに耐えきれずいくつもの店舗が入ったきらびやかなビルの三階のお気に入りのブランドの服を見ていた頃だった。

、今どこ』
「いま?」

 ビルの名前を告げると、『じゃあ着いたら連絡するな』と彼が当然のような声色で言った。言った後電話はすぐに切れて、携帯を押し付けた耳の奥で無機質な機械音だけが響く中、ガラスの向こう側にいるかわいらしいコートを着たマネキンをわたしはじっと見つめる。くるんと巻かれた金に近い茶色のウィッグを被せられた、つるんとした表情のマネキンが持つ鞄は木綿豆腐のようなサイズ感で携帯しか入りそうにない。白いファーのついたコートはわたしが着るには可愛すぎて、けれどもそれを着たいと思える若さを持つ女の子には些か値段が高いと思えるようなものだった。いつもならば、そんなどうでもいいことを考えるでもなく並んだ服の流行りや廃りや特殊なデザインを眺め、宛てがい、時間を過ごすのだけれど、今ばかりは携帯を握りしめたままマネキンの真似をするかの如く動けないでいた。
 進めもしないし、戻れもしない、動けないのに、確実に近づいてきてくれる彼の事を、息苦しさと同じ質量で待ち望んでいる。
 店を出て、階段の奥に設えられている銀色の椅子に腰掛けてから携帯の画面を見えるように持ち直した。真横にあるアクセサリーショップに人が出たり入ったりしていくのを眺めながら、三階の椅子のところにいます、とラインを送った。壁に頭をつけて数秒だけ目を閉じた後で、ポーチから鏡を取り出す。いつもより丁寧に化粧をしたおかげかそこまでメイクは崩れていない。お気に入りの口紅をそっと塗り直して、もう一度携帯をきつく握った後で壁に後頭部を押し付けて目を閉じる。
 彼が、来ても、来なくても、構わない、と思った。わたしが彼を待てる、という事実が、待ち遠しいという事実が、ただ重要なのだ。
 だからなのか、声をかけられた時、その声が果たして幻聴なのか本物の声なのか、一瞬判断ができなかった。

、待たせた」
「……ああ、お疲れさま」
「悪い、待たせて」
「いいよ、仕事でしょ。むしろ今日は無理かと思ってたし」
「……約束しただろ」
「ご飯食べた?」

 春の紡ぐ、約束、という言葉は鎖みたいにしっかりとしていて、なのにいつもやけに飴細工のように脆いから、わたしは勝手にひとりで憤る。けれども彼はその約束をきちんと守ろうと最大限に努力しているのだから、わたしが憤るのはきっとお門違いなのだ。
 たぶん、一緒にいるべきではないのだろうと思う。いつかきっと、わたしは春をひどく傷つける。なんにも気にしていないよ、みたいな顔をすればするほど心の奥底に溜まっていく澱のようなものがどんどんと嵩を増していくのが自分でもありありとわかる。
 だから、「ご飯食べた?」なんて本来訊かずともわかりきっているはずの質問をして話を逸らした。
 約束もいらない、弁明もいらない、明日もいらない、春もいらない。いつか消えたり、失ったりするものならば、最初からいらない。それなのに、どうして、手にしてしまったのだろう。

「……いや、まだ」
「なに食べる?」
「こっち来んの久々だしな……」
「行きたいとこあるなら付き合うよ」
「マジ?」
「あそこでしょ?」

 彼がよく行っている店の名前を挙げると、いたずら好きな子どものように目を眇めて微笑んだ春が「流石」と言って、わたしの手を浚って包み込んだ。彼はこんなに手が大きく、あたたかかっただろうか。手の温度も、大きさも、わたしはすっかり忘れていたのに、また思い出してしまった。
 珍しいことに春はひどく機嫌が良さそうに、「俺、明日も休みだけど」と、本当に本当にびっくりするくらい誇らしげにわたしに笑いかける。

「部屋、汚いかも」
「別になんでもいーよ」
「そうなの?」
「……ま、今日くらいはな」

 彼に手を引かれて歩き出したわたしは、わたしが望んでいたものもの、それらすべてを持っているような気になってしまう。
 本当は春を持つことができない時点で、なにひとつとして持ってはいないはずなのに。彼のあたたかく大きな手のひらに、彼が持つ籠の中に一生暮らせるわけではないのなら、一秒でも早く離れてしまいたいと思う。
 「寂しかったか?」どこかからかうような彼の声に、心の底から「寂しかった」と答えながら、春から離れたい、と思った。そこに矛盾も曇りもなく、わたしは繰り返し「寂しかった」と言って、その切実さに泣いてしまいそうになる。