そう言われると思ったよ、という防御の言葉すら、彼には通じていないし読まれ切っているらしい。
ありふれた居酒屋でふたりきり。対面で顔をつき合わせているというのに、目の前の加藤春は呆れ顔を隠そうともしない。しっかりとした罵倒はわたしに向かってくるけれど、そもそもこれはわたしの意見ではないのだ。先日飲んだ年下の友人に尋ねられた「男女の完璧な友情は成立しますか」という質問を何気なく振ってみたらこれだ。言葉にしたことを一瞬で後悔した。
「知るか。中学生かよ。分かるだろ、そんなん、ねぇよ、無い無い」
「言いすぎでは」
「ぜんっぜん言い過ぎじゃねぇよ、これは俺、断言出来る」
怒っているようにすら聞こえる春の興に乗った声に、わたしはなんと返していいかわからなくなってしまった。そこまで愚かな質問をしただろうかと頭の中で考えてみたけれど、実際言われてみると確かにそう言われるのを想定していた気もする。
ビールのジョッキをそのまま勢いづいて空にした春の滑らかに動く喉仏を眺めて溜息を吐いた。思わず吐き出したそれを咎めるような春の鋭い視線すらも予想通りで、それでも出てしまうから溜息なのだと思うのだけれども。
「無い、無い、成立するわけねぇって」
「……左様で」
「じゃあ、言ってみろよ、成立してるとこ、お前見たことあんのかよ」
「ないから訊いてるんじゃん」
「じゃあ、無いだろ」
いや、確かにそうなんだけど、切られるとわかったうえでもバッサリと切られすぎて言葉が続かない。実際、友達〜だとかなんとか言って二人で飲んでいる男女になにもなかった話をあんまり聞かないし、拗れた現場を見たことがない訳でもない。
けれども逆に言ってしまえば健全な話は健全であるからこそ耳に入ってこないのではないか、という論理も成立するような気がして、そう続けようかとも思ったけれど興に乗った春とそんな剛速球のボールの投げ合いはしたくなかったので、やけにしょっぱいシーザーサラダを詰め込んで大人しく口を噤んだ。追加でさっさと別のアルコールを頼んでいる春は店員さんに向けていた顔をまたすぐにわたしに戻して、じっとりとした視線から逃れようと目を逸らすと「はぁ」だか「あぁ」だかわからない不明瞭な文句の呪詛が聞こえてくる。
「俺にその話振ったのが間違いだ」
「だってさ、春くらいじゃん、わたしのちゃんとした男友達」
「……ちゃんとしたって何だよ」
「うーん、仕事で知り合ったとかじゃないし、長い付き合いだし、実際友達でしょ?」
「……へえ、お前、そんな風に思ってたのか」
最後に聞こえた声が、先程の小馬鹿にしたような嘲り交じりの明るいいつもの声とはまったく違う、ひどく冷えきった声で思わず箸を止めた。頭に降ってきたその声、春がどんな表情をしているのかなんて見なくたって大体わかってしまう。目を逸らしたまま汗のかいたグラスに指を添わせて、これもきっと無意味な時間稼ぎだととっくに見破られているはずなのに、それでもやめることが出来ない。
「なぁ」追い打ちをかけるような掠れた声は、男性にしてはややハイトーン。そんな単純な表現で終わりにはできないほど、聞いたことのない声色で。
ごめんなさい、ねえ、ごめんって。実は期待してた、ちょっとだけ、でも、本当にこうなるなんて思ってなかった。そう言い出したいし、両手を前に出して後ろに下がっていっそのことこのまま背後の壁にめり込んでしまいたいけれど、春の「なぁ」という声はわたしと春の空間から一切消える気配を見せない。いつの間にか現れていた店員さんから真顔でジョッキを受け取った春がテーブルの端で空のジョッキを移動するのが、目を伏せても視界の端に見えた。
ずるい、と思われているのかもしれない。嫌な女、もしかしたら、あざといとか、好みとはまた別に実際付き合うとなると春が不得手なタイプの女。ああ、だから友達のままで良かったのに。いや、期待半分、友達だもんね、と中学生じみた会話で終わることだって期待していたのかもしれない。結婚も祝福するし、みんなでこれからも変わらずたまに飲んだり、遊んだり、連絡取ったり、春がそういう存在でいてくれる、みたいな淡い期待。自分で言っておいて願望があまりにも後ろ向きであることにも気付いていたけれど、そんな後ろ向きな願望を満たすことも出来ないまま、外堀だけが着々と埋まっていくのがよくわかった。
仕方なくゆるゆると顔を上げると、テーブルに肘をついた春がひどく不機嫌を滲ませた不満そうな瞳でわたしをじっと見つめていた。こんなにきちんと彼の顔を見たのはいつぶりだろうか。わたしを射抜く視線、逸らすことすら許してくれない視線。
「俺、女友達とかふつーにいるしな、一般的にはあると思うぞ、友情」
「……さっきと言ってることぜんぜん違うじゃん」
「なぁ、なんで俺にこんな話したわけ」
「……なんとなく」
「嘘つけ。じゃあ、もういいってことだろ」
にっこりと笑う、久しく見ていなかった春の笑顔はまるで花を背負った少女漫画のヒーローみたいなのに、どこか薄ら寒くも感じた。
「お前のことだけは友達って思ったことねぇからな」
「あの、」
「言わせたのは、お前だぞ」
「……」
「マジでめんどくさ、」
ひどく喉が渇いている。ぼんやりとしたオレンジの光に照らされて、気の抜けたビールを口に含んだ。味がしないぬるいビール。顔を上げれば、目を逸らす気のないセピアの瞳と、ちょっとだけ緩められた口元。まったく減らないテーブルの料理に視線を落としながら、投げられて脳内でぐるぐると回っているたくさんの言葉を拾い集める。
この沈黙を待ってくれているのも、一種彼の優しさであることは重々理解した上でその優しさに胡坐をかいてしまう。せめて沈黙を破るのはわたしの言葉でありたい、と願ってもうまい言葉はなにひとつ浮かんでこなくて、色素の薄い彼の瞳の中に沈むばかりだ。それともただストレートに、愚かしい言葉を告げればいいのだろうか、今更、今更?
春はなにかの芝居みたいにまったく動かないままじいっとわたしのことを見つめていて、いつものどこか子どもみたいな姿が嘘のようで。
「全体的に姑息でした」
「おう。……そんだけか?」
「え、」
「で、男女の友情は、成立するか言ってみろ。男友達、俺だけなんだろ」
真剣な顔とは少し違う、ただの真顔で、最後の言葉の後に耳に届いた聞き間違いのような嘲笑。ああ、外堀が完全に埋められてしまった。
手と頬がぴったりとくっついているみたいに微動だにしないまま、けれどその姿はなにか彫像のように綺麗で、わたしは天を仰ぎたくなってしまう。寒い、なんて今までわたしの恋愛を馬鹿にしたり、くだらないこともたくさんして一緒に遊び回ってきたはずの目の前の彼。数秒前に問われたいかにも自信ありげな質問に、わたしが答えられる言葉なんてひとつしかなくて、けれどそれで勘弁してくれることすらもたぶん、彼の優しさだったりするのだろう。
もしかして、これにたったひとつしかない答えを返した瞬間、わたしと春の関係も変わるなんて。
「……成立、しないって友達にも言っとく」
「そうしとけ」
やっと頬と手が剥がれて、春はすぐ小皿に乗せていた箸を手に取ってすっかり冷えていそうな唐揚げを口に運んだ。咀嚼しながら鼻を啜る姿がひどく憎らしく見えてしまう。答えなんて知ってたくせに、なんて唐突に浮かんだ恨み節は自分のためなのか、春のためなのか。
まったく減っていない気の抜けたビールを一気に飲み干すと、「馬鹿だな」と呆れ声を上げる春の声が聞こえた。けれど、声だけでは彼が笑ってるんだか、困っているんだか、黄色の泡にすっかり紛れてしまってわたしにはよく分からなかった。グラスを置いてそっと目を合わせると、春はいつもと同じように小馬鹿にするような顔で当たり前のように「ゆき」とわたしの名前を呼んだ。なにも変わらない、いつもと同じ呼ばれ方のはずなのに、それはまるで魔法の言葉のように脳髄がぐらりと揺れる。もちろんアルコールのせいなんかじゃない、そんな、聞いたこともない優しさと甘さを孕んだ声で。ふわふわとやわらかな声が空気に浮かんで消えていく。
目を細めてひどく満足そうに微笑む彼の名前をぐらぐらと揺れっぱなしの頭で呼んでみると、彼もまた、なにかに酔ったような顔で、初めて見る微笑みを見せるのだった。