銀河鉄道の夜



 春の寝顔を眺めていると、んぁ、と無意識のうちに漏れ出たような声が聞こえて、彼の重そうな瞼がゆっくりと開いた。
 昼間はどこもかしこもなまあたたかい風と光が散らばっているというのに、深い時間になるとまだ冬を思い出すのか、この部屋も紺色の分厚い暗幕が覆っているみたいにしんと冷えきっている。薄手の部屋着を身に纏った春の肩口にそっとずれた掛け布団を引っ張り上げて、わたしは目を閉じて寝たふりをしようとする。先程の自分で発した声でしっかりと覚醒したらしい彼がベッドの中で僅かに身動ぎをすると、足元のシーツがくしゃりと歪んだ。それから、腕を掛け布団から出して顔のあたりに当てるような仕草をしたのが瞼を閉じていても気配でわかる。
 寝ているという言い訳を吐くにしては力を入れすぎていた自分の瞼をそうっと開けると、寝起きで少し唇が乾燥している春とぱっちり視線がかち合う。彼の頬が濡れているような気がしたけれど、気のせいのような気もして、わたしは自分の目尻を擦るように指先でぐっと抑えた。
 言うべきことは別段なくて、男相手に羨ましく思ってしまうくらいには長い睫毛が暗闇の中でつやつやと光っているように見えるのは、カーテンの隙間から割り入ってきている月明かりのせいなのかもしれない。名前を呼んだりだとか、触れたりだとか、そういうことをしてあげたかったけれど、おそらくそれらはもう自己満足の域になってしまう。だから、ただ寝惚けているという風情でわたしはまた目を閉じる、そのまますやりとなめらかに眠りにつくという顔で。寝ている、というのを意識すると瞼に変な力が入るし、呼吸の音もまるで下手くそになって、なんだかちぐはぐになってしまう。春の呼吸音がそういえばあんまり聞こえないことに気が付いたわたしはなんだか怖くなって目をそっと開ける。ミルクティーみたいに明るい茶色のさらさらの前髪は伸ばしすぎているのか少し目にかかっていて、けれど隙間からじっと春がわたしを見ていた。

「お、」
「……うっ、わ」
「はよ」
「まだ夜だよ」
「起きたんだよ、仕方ないだろ」
「うん」

 微睡みの名残を残した春の声はいつもより速度が遅くて、寝起きである事実相応に掠れている。もう一度寝るだとかきちんと起きるだとか、新しい選択を迫ることはなんだか憚られて、わたしはただじっと沈黙を保ったままに彼を見た。目が悪くなりそうな前髪のかかり方も、文字通り眠たげに伏せられた瞼を縁取る睫毛の密度も、寝起きのくせに芸術品のように美しい。言えば調子に乗るんだろうか、見惚れていた数秒の間にぼんやりと脳裏で考えて、わたしは口を動かすという選択肢を放棄することにした。じいと、こちらを見る春がなにかを言いたげにしていると気付いていたからかもしれない。春が目を覚ますよりも少し早くから起きていた分、わたしの頭の回転の方が些か早いはずだ。流石に目が覚めて直ぐでは、彼の鋭敏さはまだ鳴りを潜めている。
 頭が良すぎるのは決して不幸ではないけれど、幸せなことでもないんだよな、と春と顔を合わせるようになってから何度か考える。
 頭が良いくせに地頭が固く不器用で、不器用なくせに責任感が強くて、けれど同じ責任を他人に背負わせる気はあんまり持っていないひと。刑事になるために生まれてきたといっても過言ではない正義感の強さと、ひどく生きづらいであろう世の中の理不尽に晒され続ける病的なまでの繊細さは相反しない。残酷とも言える純粋な思考回路で、光が強すぎて周りが目を逸らしてしまうような綺麗すぎる言葉を、真っ直ぐに放ちながら背筋を伸ばせるひと。けれどわたしじゃなかったら多分こっぴどく振られているであろう無神経な事を平気で宣うし、彼のためにしたオシャレだって少しの見た目の変化にも気付かない。そのくせわたしが一番つらい時だけは、ヒーローとしか呼べない程完璧なタイミングで淡く名前を呼んで、深い事を無理矢理に聞き出すようなこともせず、そっと背中を合わせて寄り添ってくれる。そんな、全部がちぐはぐで、ただひたすらに真っ直ぐなひと。
 たまに、このひとはずっと、最後までひとりで立ち続けて、そのくせ周りに感謝したり、怒ったり、笑ったり、逐一律儀にするのだろうかと考える。できることならば、彼の手を取ったり、その肩に伸し掛かる重荷をひとつでも取り去って軽くしてあげたいけれど、そういったその場凌ぎでしかないことは彼が求めているものではないのもわかりきっていた。
 煩わしそうに自らの前髪を指先で払うようにかき分けた後で、春がわたしの頬に掌をそっと乗せた。いつもなら子供みたいにじゃれついてきたり、抓ったり、撫でたりしてくるところなのに、その掌は重くならないように置かれたまま動かない。部屋を覆い尽くす程に降り積もった沈黙に耐え切れず漸く口を開こうとした瞬間に、春の頬の筋肉がゆっくりと動くのが見える。

「お前はあったけぇな」
「寝てたからね、さっきまで」
、いつ起きた」
「いつだろう、でも春に起こされたわけじゃないよ」
「布団掛けたか?」
「……かけた」

 彼の剥き出しの首筋はこの部屋にいる時、暗さのせいか死んだ魚の腹のように真っ白なのだ。呼吸と共に隆起する喉仏の動きを見ていたい気持ちと、誰にも見られないように隠してしまいたい気持ちが混ざり合う。彼の肩に掛け布団をかけ直したのはこれが初めてではない。多情多感で神経質で眠りが決して深くはない彼よりもよっぽど睡眠の浅いわたしは、ふと起きるたびに同じことを繰り返しているような気がする。だいたいは目が覚めて、布団を肩にかけ直した後、白いシーツに吸い込まれるようにして海の浅瀬に爪先を浸すような眠りに落ちるのだけれど。

「あったけぇ」
「また眠れそう?」
「……ん、ねれそう」

 睫毛がふるふると小刻みに震えて光っている。ゆるやかにと瞬きの速度が遅くなっていって、わたしの頬に置かれていた手がゆるゆると落ちていく。そっと掛け布団の中に力の抜けた春の片手を収めて、一瞬悩んだ後に折り曲げるようにして胸のところに収めてあげる。起きてしまうだろうかと思ったけれど、春の呼吸は規則正しく繰り返されていた。
 何度もふたつの感情を天秤にかけて結局、深く長い呼吸に入った春の顔に、躊躇いがちに、それでも浮かんでいた疑問を解決するためにゆっくりと顔を近づける。気のせいではなかった、引っかかっていた事柄をひとつ消化したわたしも、彼の呼吸に合わせて息を始めた。ゆっくり、力を抜いて、何度も。瞼の裏に浮かんだ先程の春の閉じた瞳と、すっきりとした頬の曲線を思い出して、隣で、彼より少しあたたかいらしい体温を分けることができるのをほんとうの幸いだと感じて心底安堵する。
 今夜の事を仮に春が忘れてしまっていても、或いは夢だと思ってくれていたらいいな。どんどんと身体がベッドの底に沈む感覚を味わいながら、わたしはひそやかに胸中で祈る。朝になって目が覚めて、シャワーでも浴びて凛とした顔で笑う春に、わたしは寝惚け眼でおはようと言うだろう。あと数時間後には消えてしまう、パラレルワールドの中の夢か幻みたいなわたしと春を、きっとわたしだけは忘れない。春が言う程にはあたたかくない自分の頬に手を当てて考えるのを止めると、するすると風船を手放すみたいに意識が遠のいていく。
 おやすみ。一緒にベッドに潜る時、いつも聞いているその声がまた耳元で柔らかく響いたような気がした。おやすみ、また明日。言わなかった言葉を喉の奥で繰り返し転がしながら、わたしも春が沈む処に、ゆっくりと、確実に飛び込んでいく。