真空溶媒



 先程まで閉め切られていた部屋の中から飛び出してきたは外出用のコートを着て首にマフラーを巻き、財布を小脇に抱えていた。満面の笑みを浮かべた彼女はちょうど菓子盆から抜き取った駄菓子の袋に手をつけようとしている俺を見て唇の端を上げる。いつもより血色が悪いのは寒さのせいだろうか、エアコンの調子が悪くて殆ど暖房のつかないの部屋の温度を考えた。掌が小さいせいでやけに大きく見える財布を片手できつく握ったままマフラーにすっぽりと埋まっていた口元を出して朗々と口を開く。

「コンビニ行きたい人!」
「……お前が行きたいんだろ」
「肉まん食べたい」
「ちょっと待ってろ」
「はぁい」

 財布を持っていない方の手で勇敢に手を挙げるは俊敏かつ、大きな動作のせいかいつもよりずっと幼く見えた。いつもこうではないのだけれど、たまにこうなる彼女を最初に見た時、俺は驚きと同時に少しばかり後ろに下がるような気持ちになる。ただ今ではすっかり慣れきって、開封しそびれた駄菓子の袋を菓子盆には戻さずテーブルに置き、流れているドラマの声より部屋に残る高く眩しい声を探すばかりだ。のいつもと同じ唐突な提案を今では快く思っていることに気付かれないように、唇をきつく引き結んだまま立ち上がってクローゼットのある寝室へ上着を取りに向かう。元来あまり物を多く持たない俺の私物をいくつか彼女の部屋に置いておくのは、安心材料だとか懸念だとかいろんな意味を含んだ保険だった。俺が座っていた場所には入れ替わるように素早く腰を下ろして脚をぶらぶらと揺らし、脚の動きに呼応するようにひとつにまとめられた髪が左右にゆっくりと揺れた。装身具をひとつも着用していなくても、まるでそれがきらびやかなアクセサリーであるかのように、俺はいつも惹きつけられる。上着を羽織り財布をズボンのケツポケットに押し込んだ後、俺が持ってみると取り立てて大きくもない彼女の財布を取り上げてテーブルに置いた。やはり大きく見えたのは見間違いだったのかもしれない、ころんとテーブルに転がった彼女の財布を視界の端に捉えて考える。いつも何もかもを把握するのにワンテンポ遅れる彼女の手の中に部屋の鍵を押し付けて俺は先に玄関に向かった。歩幅が小さいの立てるぱたぱたと少しうるさいスリッパの音と一緒に聞こえるのは「ねえ、春くんは何買うの」という楽しげに弾んだ声。
 何かを食べよう、と考えているわけではなく、ときたま訪れる夜の散歩に今日は付き合ってもいいと俺が思っただけなのだけれども、言ったら確実に調子に乗るだろうから言わないでおく。この夜の短い散歩の後、ビニール袋に入っているものはの食べるものだけで終わることは今までにも殆どなかったのだから。お互いにきちんと夕飯を食べたことと深夜のコンビニへの外出はあまり関連性がなく、あの瞬間に完全に満腹であったり今が空腹でないことはさしたる問題ではないのだ。そういう、引力と言ったら大げさかもしれないけれど、引っ張られる、行ってみよう、覗いてみよう、みたいな気にさせるコンビニと、コンビニ好きの彼女が。

「お前は?」
「さっき言ったじゃん、肉まんと、からあげ」
「肉まんしか言ってなかったよな、増えてんだけど」
「あーそうかも」
「さむ」
「寒いね、帰ったらココアいれよ」

 恐らくは、帰ってきたらココアではなくの買った食べ物、肉まんなのか、からあげなのか、はたまた気まぐれに買った菓子パンなのか、それらに合うものを淹れるのだろうと分かっていて、俺は敢えて返事をしなかった。ただ、同意を求めているのかいないのか中途半端な声の余韻を鼓膜に残したまま、靴を履いた俺から先に玄関を出てエレベーターのあるフロアへ向かう。俺が廊下の半分程を歩いている頃に鍵の回る音と、ドアノブを引く音が続けて聞こえた。ゆっくりと上ってくるエレベーターの音と階数ランプの点滅が移動しているのをぼんやりと眺めながら、てこてことこちらへ歩きながら上着のポケットに鍵を収めるの姿を視界に入れる。隣に立つと冬の寒さのせいか平生よりも一回り縮んだような錯覚を覚える彼女は実際肩を上げ首周りに力を込めていた。意識してやっているわけではなく、自然とそうなってしまうのだろう。いつもより多い瞬きの数、すっぴんのせいで更に幼く、かつ、つるんとして見える横顔、頬の下にある小さなほくろ。エレベーターがやってくるまでの細やかな時間に重ねられた瞬きの数分、アイライナーやマスカラの落とされた瞼は僅かに疲れているように見えた。冷たい風を真っ直ぐに受けて簡単に冷え切っているであろう頬と鼻の赤みをじっと見ていると、不意にが俺を追い抜く。到着したエレベーターにするりと身体を滑り込ませて1のボタンを押した後、ゆっくりと息を吐いた。ただ数分間歩くだけとはいえ、それをこんなにも俺が気に入っているのは、プランを立てて待ち合わせをして、という計画と順序を踏んできちん行うデートよりも、ずっとこっちの行動の方が俺たちには似合っているように思えるからだ、と身体が垂直に落ちるエレベーター特有の感覚を味わいながら改めて噛み締める。
 季節が冬になってから恐らくは二度目である細やかな外出について、こんな風に考えていることを知らないであろう横顔。夜の色をきちんと映すことの出来る目の引力は出会った頃からひとつも失われていない。自覚はないながらに些かせっかちに行われる瞬きを、上下に動く繊細な睫毛の先を俺は静かに見て歩くスピードを緩める。

「早く行こう、寒いよ」
「行きたいって言ったのお前だろ」
「でも春くんもどうせ買うでしょ」
「行ったらな」
「ほらぁ」
「何がほらなんだよ」

 何が楽しいのか全く分からないまま、にっこりと笑うを俺は見て、多分同じように笑っていた。どうして自分もつられて笑っているのだろうか、と一瞬考えて、突き詰めるのを止める。ただ勇敢に進んでいく小さな背中をさすりたいような、抱きしめたいような気持ちのまま俺は大股でその横に並んだ。寒い寒い、と小刻みに揺れて信号を待つ小さな身体を横から眺めて、かける言葉もないまま、今も煌々と光り俺たちを待つであろうコンビニまでの道のりを頭の中で反復する。