月光の鉛のなかに



「あ」
「なに」
「なんでもない」
「何だよ」

 ピロンだろうか、ポロンだろうか。携帯端末からこぼれた無機質な電子音の行方は、の声に消えた。何かを考えるときに口元へ手を当てるのが癖だと自分で気付いていないのだろうか。更にはうーん、と唸るように小さく声にも出ている、多分、これらは無意識下の行動で恐らく当人は気が付いていない。それなのに、どうしたのかと訊けば絶対になんでもないと返してくる。だから俺は無関心なふりをして読んでいた雑誌に再び視線を落とした。そうしたら遅かれ早かれ、だいたいの方から話しかけてくる。それとなくソファにスペースを作ってやれば、収まるような形で控えめに入り込んできた。ほら、何でも聞いてやるから話してみなさい。

「明日、ちょっと出かけて来てもいい?」
「は?仕事終わってから?」
「……うん」

 また口元に手を当てている、自分から言い出したというのに全く楽しみには見えないどちらかといえば暗い表情、あ、これは明らかに何か隠してるなと直感した。余裕が無いわけではないけれど、こういうときには少しばかり意地悪をしたくなってしまう。

「女友達だろ?」
 疑いようもなく当然、と言わんばかりに俺がそう訊いてみれば、は分かりやすく動揺を顕にしてうようよと視線を泳がせた。いや、とか、あー、とか言葉を濁しているけれど、もちろんそんな曖昧な返事で逃がすわけにはいかない。

「は、もしかして男?」

 ギクリ。擬音を付けるならばまさに文字通りのそれだった。俺が不信感を抱いたのがはっきりと伝わったようで、は慌てて弁解し始める。

「違う!いや、違わないけど!職場の先輩からどうしてもって頼まれて、その、飲み会っていうか、うん」
「合コン?」
「……うーん、言い方を変えれば。でも、そんな浮わついた気持ちはまったくなくて!」
「は?当たり前だろ」

 一人で勝手に焦燥しているにぴしゃりと言い放てば酷くやりづらそうに睫毛を伏せた。浮わついた気持ちなんて一片たりともあってたまるか、バカ野郎。迷っている彼女の背中を押すつもりは毛頭無い。こういうときに例えば表面上だけでも余裕ぶってみせればが変に気まずい思いをすることだってないのだろうけれども、できれば行って欲しくないというのも紛うことなき本音なのだ。けれどの交友関係というか人付き合いまでをあまりに束縛するのも良くないのだろう、以前に一度「職場の人から付き合い悪いって言われちゃった」と落ち込んでいたのを知っている。そのときは電話越しでへらへら笑っていたけれど強がっているのが見え見えで、いろんな意味で腹が立ってしまった。嘘だとか隠し事だとかがどうしようもなく下手くそなくせに、俺を困らせないようにと変な所で気を遣って寄りかかってこない。もし隣に居たら絶対ふざけんなと言って頬を抓っていたことだろう。ピロン、いや、やっぱりポロンか。重たい雰囲気を裂くようにもう一度間の抜けた音を立てて携帯端末がを呼ぶ。どうしよう、と迷いを隠しもしない様子に溜め息を小さく落として膝の上に雑誌を閉じた。

「……行ってくればいいだろ」
「……行かない」
「は?」
「行かない」
「何で」
「なんでも」

 どうやら少し意地悪をし過ぎたらしい。完全に拗ねてしまったは膝を抱えるとソファの上で俺に背中を向けてしまった。一体俺が何をしたっていうんだ、と純粋な疑問を胸の内で反芻しているうちに、俺はいつから他人の内面の機微にこうもかかずらうようになったのだろうかということに疑問点はすり変わる。生まれてからこれまでの間にだらだらと描き続けてきた自画像が途端に別人に見えてしまう。行くなよ、とは正面切って言えない俺の格好悪くてみっともなくて情けないプライドを少しは察して欲しい。

「ほら、早く返事しないと相手も困んだろ。行ってきていーから」
「……いいの?本当に?」
「……あんまハメ外すなよ」

 ありがとう、と漸くこっちを向いてぎこちなく笑っているけれど、正直なところ複雑な心境ではある。例え彼女自身に浮わついた気持ちが微塵も無くたって、あっちから変な虫が寄ってきたらどうしようだとか考えてみただけでむしゃくしゃする。携帯端末でさっそく職場の先輩に返事を送ろうとするの表情は先程よりも幾分か晴れていて、自分が了承したことだけどもなんとなくやりきれない。人付き合いだ、そう、ただの人付き合い。そこまで彼女に行動の諸々を制限させるほど俺の心は狭くない。口元に手を当てて、少しの間考えてから指先を動かす。どうやら返事を送信し終えたらしい。ぱっと顔を上げたの名前を呼んでから、返事を待つより先に抱きしめた。この小さな身体に、俺の匂いが一生取れないくらいに染み込んでしまえばいいのに。

「やっぱり行かないで欲しいんじゃんか」

 ただのポーズだったにしても俺の怒りが続いていないことを憂慮していたらしい、どこか安堵したように顔を綻ばせたはふと俺の顔を見て困ったように眉を下げると、ごめんね、と笑った。些細なことですぐに謝る癖はいつまで経っても直らない。けれども、彼女のそういうところが愛しい。

「……別に」

 行かないで欲しいことは誤魔化しようもなく図星ではあるけれど、が悪いわけではないし謝って欲しいわけでもない。それでもやっぱり悔しくなって、堪らず彼女の首筋に噛み付いた。少し強めに犬歯を立てて、白い肌には一層目立つ独占欲を残す。

「虫避けな」
「ちょっ、と……これじゃ、行けないじゃん」

 そう言ってはいっそう眉を下げて困ったような顔をするけれど、隠しきれない耳の赤さを見て僅かに溜飲が下がったような気持ちになった。だったら行くなよ、とは意地でも言いたくないから、かわりに唇を塞いでやった。
 呼吸してきた全ての時間を費やして描きあげた自画像を毎日のように修正させる、恋愛とは多分に不便な行為だ。疲れ果てた指先をぎゅっと握りこんでもう面倒だと項垂れることはしょっちゅうだけれども、もう止めてしまいたいとは露ほどにも思わない。
 後で明日の時間と場所を聞いて、絶対迎えに行こう。あ、全然ヤキモチとかじゃないけど。