手は熱く足はなゆれど



 ピクニックに行こう、と李依が言い出したのは、初夏とも言い難いほど春も終わりかけの、じりじりと首の後ろが焼けそうになる暑い時期だった。そして今、梅雨が明けた真夏日に俺は早起きをしてキッチンに立って、車で李依の家へ向かっている。
 例えばいつものデートで俺の迎えを待つ李依は完璧に準備をして、俺がマンションの下についた旨の連絡をすればすぐにやってくる。そこまで器用でもない割にきちんとセットされた髪やだいたいきっちり食べてくる朝ごはんのことを考えると、今日はいったい何時起きなのか。基本的に李依の提案には何事にも反対しないようにしている俺が、真夏のピクニックという食べ物にもあまり良ろしくない、そのうえ三十路手前二十代後半の男がやるようなことではないことを反対したのには「そもそもピクニックって」という感情があったからだ。普通に夏は危ないし、冬は寒い、じゃあ、いつやるんだ。
 俺のそんな不満げな声に返ってきたのは、「んーじゃあお弁当バトルにしよ、わたしも作るよ」というくだらない提案。その言葉尻に内包された「こいつは絶対やる」という確信。この声に実は意外と弱くて、俺を信じ切って絶対に俺が否定しないと思っている声は子供よりよっぽど純粋だ。そんな明朗な声に俺はいつもいつもぐずぐずに弱り切って、いや、本当は李依にそんな声を出させる俺自身に満足して頷いてしまう。
 提案時期のせいで決行も遅くなってしまった。クーラーを効かせてもまだ蒸し暑さの残る車から熱があらかた消えた頃、李依の家に到着したので携帯を鳴らすとワンコールで切れた。李依曰く、わざわざ出なくても着いたのが分かればいいんだから、と気付いた時点で切ることが恒例になっている。相変わらずの合理性と、どこか比例するように俺の電話を準備を終えて律儀に携帯の画面をじっと見詰めて待っていたであろう李依の顔が浮かんで少し笑ってしまう。

「おはよー、何時起き?」
「お前……クマすげえけど」
「加藤くんもやってくれるって言うし、やるって決めたらなんか凝っちゃって」
「……寝とけ、なんの為に行くのかわかんねぇだろ」
「だいじょぶだいじょぶ」

 クーラーバックをひとつ膝の上に乗せて、いつもより大きめの鞄を携えている李依にそれらを後部座席に乗せるように伝えてから俺はカーエアコンの温度を少し下げる。目的地は、なぜかいつ行ってもトランペットの練習音が聞こえるだだっぴろい公園だ。
 手元から荷物がなくなって手持ち無沙汰になっているのか暇そうにしている李依のために隠れて音楽のボリュームを絞れば、すぐに船を漕ぎ出す。本人は寝たくないらしく重そうな瞼を思い切り開けようと努力しているけれど、さっさと寝た方がお互いに楽だろう。だから待ちに待った信号待ちの瞬間、「おやすみ」とセットされた髪を崩さないように李依の頭をそっと撫でてみると、彼女は安心したようにすんなりと眠りに落ちていった。自分が出した声が存外ガムシロップのように甘ったるく、しかもその声を聞いた瞬間に寝てしまうなんて、また俺が子供のように純粋に愛されていることを自覚させられてしまった、なんて考えていることを助手席の眠り姫は知らなくたっていい。
 曜日のせいか待ち合わせの時間のせいか思ったよりも道路は空いており、目的地の公園の裏手のパーキングまではあっという間に感じた。ベッドと助手席で見る寝顔は何か違う、車を停めても身じろぎしない彼女を揺り起こすと、無駄に寝起きだけはいい李依がぱちりと目を開けて「おはよう」と微笑んだ。俺が後部座席から持参した荷物を取り出していると、親鳥についていくひな鳥みたいに李依もゆるゆるシートベルトを外して同じ行動を取る。

「ねえ、加藤くん、気合入れた?」
「普通だろ、普通」
「えーわたしピックとかバランとか買いに行っちゃったよ」
「何だそれ」
「かわいいさ、楊枝みたいなのと、仕切り」
「いやそれは知ってるけど。買いに行ったのか」

 そこそこの荷物を持った俺たちはそっと茂った緑の入口を潜って公園に入っていく。お互い外側に向かって荷物を持って、反射的にというかいつもの癖で内側の手は軽く握手するように簡単に繋いでいた。
 それにしても暑い。寝起きの仕事前だったら機嫌のゲージが最低を突き抜けるほどの暑さは、帽子を被っていてもきちんとやってくる。けれどそんな日差しにも平然とした顔をしているから存外に女の子は強い。ただ、なぜか俺と繋いだ手を何度かすり抜けるように手を離す、というか、ちょっとだけ浮かせるようにして。

「荷物、重いのか」
「へ、なんで、結構軽いよ」
「なんか、手、離れてくから」
「……」
「何なになに、言えって、怖ぇよ」
「手汗が、すごいので、違うんですよ、代謝がいいんだけど、加藤くんに悪いから」

 さっきまで小学生のピクニックの顔をした「加藤くん」と俺を断固として呼び続ける李依は夏の暑さではない理由で耳を赤くする。加藤くん、と呼び続けるのも出会った時からの癖のせいで、今更「春くん」だとかその他諸々かつてほかの女も呼んできたであろう有り触れた親しげな女みたいな呼び方をしたくないと意固地に言っているのを一度だけ酒の勢いで聞いたことがあった。本人もきっと俺に言ったことなんて忘れているのだろうけれど。
 彼女は俺のそんな瞳に気付かないまま、「待ってて」といやに真剣な面持ちで鞄の中に入っているハンカチに手を伸ばす。片方の手がハンカチらしき布きれを掴んだまま鞄から出てきたのを確認して、俺はその細い手首を掴んだ何もついていない手がひどく珍しい。ピクニックって言ったから時計を外してきたのか、サマーグリーンの地に小さく紫色の花が刺繍されたお気に入りのハンカチを掠め取って「あとで返す」と告げると、李依のもともと真ん丸の瞳はさらに丸くなり、俺は嫉妬か何かしているのかもしれない。ハンカチに?断固として下の名前で呼ばない彼女に?汗ばんだ掌をまだ掴めない関係性に?

「そのままでいいから」

 まだ手首は冷たい、滑らせるようにそのまま手を掴んで先程と違い指同士を絡ませるようにして手を繋いだ。何を言えばいいのかわからない猫か犬のような顔で俺のことを見つめる李依にかけたい言葉がシャワーのように溢れてくる。多分、今の俺の愛情は水よりも豊富で無限で果てがない。断言してしまうと、俺の弁当の方が絶対美味いし、公園はきれいじゃなくて、暑さで先にダウンした彼女を引きずって俺は車に戻ることだろう。そんなことは「ピクニックに行きたい」という声を聞いた瞬間から全部見えていた。じゃあなんで行くのかと朝タコの形に切ったウィンナーを炒めながら俺も考えてみたけれど、選択肢は初めから無いのだった。

「汗、すごくない、離していいよ」
「だから、なんで。いいだろ別に」

 本気で嫌なのとはまた違って、けれど本当に離してほしいというのは分かる懇願の目つきから視線を逸らす。
 日差しは暑く、日陰の下にあるちょうどいいベンチとテーブルがもう少しの所に見えてきた。バカップルとはどこまでなのだろう、逃げようとする、もうなんだか分からない俺と彼女が同一化したみたいな内側のお互いの掌と指先の感触を感じながら考える。こんな風に強く離れないように繋いでいる手だけでバカップルと言うのなら、もしその程度で言われるのなら別に俺たちはどっちだっていい。観念したのか、まだ拗ねているのか分からない李依に「ほら、あそこで食べるぞ」ときちんと輪郭の見えたベンチとテーブルを指した。赤かった耳のことも忘れた彼女が瞳を輝かせて、いいね!行こう!と笑い少し足早になるから俺は観念するしかない。弁当は腐ってほしくないし食べ物を粗末にしたくもないけれど、本当はもうそろそろ弁当のことなんてどうでもよくなっていて、マラソンだったら地獄のような炎天下の中でただ漠然とした道のりを延々永遠、李依と手を繋いで歩いていたいと考えてしまっていた。
 形勢逆転、俺を引きずるように歩いていく彼女の指先の一本一本の感覚を味わいながら、俺は平生仕事で履く革靴とは全く違うスニーカーで久しぶりに触れるやけに柔らかい草と土を蹴り上げる。