マリヴロンと少女



 もしもの話とか全然好きじゃないんだけど、もし生まれ変わったならばきっと、この人とは付き合わないだろうなって思う。この思いは独りよがりじゃなくて、たぶん春くんも同じなんじゃないかな、わざわざ自分から傷つきに行きたくはないから絶対に言わないし訊かないけれども。

、寝んなら先にシャワー浴びろ」

 重たい瞼をなんとか抉じ開けてスマホの画面を見ると、深夜2時になろうとしていた。どうやら、ソファでうたた寝していたわたしを見兼ねて起こしてくれたらしい。
 ああそっか、明日お休みだからたまには春くんの帰りを待っていようかなって。おかえりって、今日もおつかれさまって、笑顔で迎えるつもりだったんだけどなぁ。
 目を擦りながらゆっくり身体を起こして、それでも未だにおかえりと言う隙がないのは、春くんがどこか苛立っていることにすぐ気付いたからだった。醸し出す雰囲気もそうだし、なにより口調にトゲがある。こういうときの勘は当たってほしくなくても大抵当たってしまうし、自分の不甲斐なさだとかそういうものですぐに心はいっぱいになる。けれどそんな些細な様子にいちいち悲観することもできなくて、ごめん、と睫毛を伏せてひとことだけ返すのが精いっぱいだった。

「……いいから。シャワー浴びてくれば」

 唯一、それくらい。それだけ言い残すと自分の部屋へと荷物を置きに行ってしまった。決して短くはない時間一緒にいたから、好きだからこそわかるのは、春くんがトゲこそあるものの言葉選びや口吻をほんの僅かにでも優しいものにしてくれていること。
 本当は、部屋中をできる限りきれいに掃除して、彼と連絡を取って帰宅のタイミングに合わせて夕食を温めておいて。おかえりなさい、おつかれさま、って。それらは結局、目論んでいただけでなにひとつまともにはできなかったけれど。やっぱり自分の無力さに耐えられなくなって、ソファと色の揃えられたクッションに顔を押し付けた。

、シャワー」
「……春くんお先にどーぞ」
「そしたらまた寝るだろ」
「……一緒にお風呂入る」
「は?」
「うそ」

 ようやく立ち上がって、いそいそと着替えを取りに自室へ向かった。一瞬だけ立ち眩みがした気がするけれど、きっと、気がするだけ。なんかもういやだ、最悪、どうしてこんなにうまくいかないんだろう。
 春くんにはわたしなんかじゃなくて、もっと他に良い人がいると思う。わたしにだって、もっと生活リズムだとか価値観だとかがぴったりはまるような人が世間には絶対いるんだろうな。春くんほどカッコよくなくても、春くんほど魅力的じゃなくても、わたしを大切にしてくれる人はきっともっと他にいるって、そんな気がする。考え始めたらキリがない悪循環にずぶずぶ沈んでいく思考回路にそっと溜め息を吐いた。
 この部屋にいて、ふたりで暮らしていると狭い迷路に迷い込んだような気持ちになることが多々あった。そういうわだかまりみたいなものを無視してみたところで、息が詰まることも本当はわかっているのに。



 言葉と同時に部屋のドアをノックする音が耳に届いて、出そうになっていた涙を慌てて引っ込めた。返事をしたらドアが開く。びっくりしたせいで声がちょっとかすれてしまった。部屋の電気すらもつけていないことに気付いた春くんが怪訝な顔をしたのが、暗がりの中でもなんとなくわかった。

「また寝たかと思った」
「……あ、ううん」

 感謝の言葉とか、日頃の思いとか、わたしはいちいちなにを期待してるんだろう。そういうのをないものねだりって言うんだ、バカみたい。きっと赤くなっているであろう目許に気づかれないように俯いて、ぱぱっとシャワー浴びてくるね、と急いで横を通り抜けようとしたのに、通せんぼをするみたいに腕を突っ張って立ち塞がったのは他でもなく春くんだ。反射的に顔を上げたら思っていたよりもずっと真剣な瞳に見つめられていて、なんの感情かわからないままちょっと泣きそうになってしまった。

「今日、プリンもらったから食っていーよ」
「え?」
「だから、今日プリンもらったから」
「わたしが食べていいの?」
「そう言ってんじゃん」

 春くんの言い方は相変わらずぶっきらぼうで全然優しくない。だけど、さっきとは別人みたいだ。

「多分、好きなやつだから」

 言葉に詰まってから、ありがとう、となんとか返して睫毛を伏せた。どうにか泣かないように堪えてはみたけれど、声は震えてしまっていたかもしれない。やだなぁ。春くんとふたりきりの生活を始めてから、わたしは泣かされてばっかりだ。それでも、不器用でも下手くそでも、こんなふうに嘘偽りのない気持ちを見せられるたびに、わたしはどうしようもなく、またこの人に恋をしてしまう。

「は、なんで泣いてんの?そんなプリン食いたかった?」
「……春くん、チューして」
「ふざけんな。早く風呂入れよ」