月夜の電信柱



 じっとりとした風が真っ暗闇のなかでわたしの身体の露出している部分すべてを撫でるように過ぎていく。家を出る前に振りかけてきた虫除けスプレーがつんと鼻先を擽った。春くんにも同じように振り掛けたら彼の制汗剤と混じって変な匂いになってしまい、だから言ったろ、と春くんが玄関先で眉を下げて笑ったのは数分前の出来事だ。
 公園に向かう道は少しだけ細く、ふたり並んで歩くのに苦心した。遠足かなにかのように縦になって歩いて、たまにすれ違う人とぶつからないように歩く。本当に深夜に行くなんて奇特としか思えないほど、徐々に近づいてくる目的地は公園と言うより森に似ていた。

「あそこ、自販機あったっけ」
「知らね。……なんか買っとくか」
「春くんも飲めるやつにしよ」

 わたしがそう答えると、彼はすぐ眼先にあった自動販売機にさっと近づいてボタンを押す。財布から小銭を取り出して指先で押し込む仕草が、煌々とした灯りに照らされて思わず息を飲んだ。精悍な横顔のラインすら真っ暗な中で浮かぶ真っ白な光。いつも春くんといると呼吸を忘れてしまう。ただぼんやりと彼の所作を見詰めていると、がこん、と意識を現実に引き戻す音が聞こえた。赤い自動販売機から落ちてきたのは間延びした名前と独特なフォントが有名なパッケージのありふれた緑茶。ボトルキャップの部分を持ちながら、春くんは一度立ち止まることも振り返ることもなく公園へ足を向けた。

、座ってから飲めよ」
「子ども扱いしないで」
「もう喉乾いたって顔してるけど」
「それはある」
「ほらな。で、まずはブランコ?」
「ばかにしてるでしょ」
「してねぇよ」

 にやりと春くんが笑って、わざわざペットボトルを持ち替えてわたしの手を掴んだ。信号機の赤い光の奥に見える公園の入口には、申し訳程度に設置されたふたつの光が待ち受けている。わたしより何周りも大きい春くんの手がわたしの手をそっと包み込んで「熱い」と彼はひとこと零した。じゃあ離せばいいのに、なんて言いたくなってしまうから、いつもかわいくないと言われるのだろうけれども。今日はわたしのくだらないわがままに付き合ってくれた春くんに免じてなにも言わなかった。ただ、強く握られた彼のしっかりと節のある指先がわたしを掴んで離さないという事実が信号機の色すら忘れさせる。

「ぼんやりすんな」
「……え」
「青。さっさと歩け」
「はぁい」
「遠足か」

 春くんの声が、いつもの家よりずっとずっと早く、でもしっかりと広がって染み込んで空中に消えていく。本当は一文字一音を撫でて転がしても余りあるほどゆっくりとその声に触れていたかった。乗りたいと言っているわけではないのに、公園に入った瞬間にまっすぐブランコに向かう春くんに少しだけ笑みが漏れる。その笑い声を耳にした彼が 「なんで」笑うのか、と不満そうな声を上げた。

「ブランコじゃ隣同士になれないよ」
「じゃあ何しに来たんだよ、滑り台か、」
「え、外の空気を吸いに」
「せめてなんか乗れば」
「深夜の公園って落ち着かない?そんなことない?」
「別に考えたことないな。初めて来たし」
「春くんの初めて貰っちゃった」
「お前の他の初めては大体俺が貰ったけどな」

 誰が言っても聞いても耳まで赤くなるような言葉をさらりと春くんは言ってのけて、返す言葉もなくただ唖然とするわたしからするりと手を離す。そのまま迷うことなく一番近くにあったベンチに腰かけて、ペットボトルの蓋に春くんは手をかけた。ぱきりと軽い音を立てて、わたしだったらもっと苦戦するであろうそれをいとも容易く開けてしまう。なにかに対抗するように急いでわたしは彼の隣に腰かけて「春くんのが喉乾いてたんじゃん」とぼやいてみせると、蓋を飲み口に被せるようにした状態のまま、春くんがすっと目を細めた。ここで見る春くんの瞳はいつもの色素が薄いセピア色ではなく、青みがかったグレイのような不思議な色に見えるのは夜の光のせいだろうか。

「どうせお前、開けられないとか言うだろ。だから開けただけ」
「……あっ、……はい」
「すげえ勝ち誇った顔してたけど」
「いやほんっと申し訳ないです」
「俺、の彼氏だぞ?そんくらい分かるわ」

 同じ椅子に座っているからこそ痛感する、意味がわからないほど持て余した脚を組みなおして春くんはペットボトルをわたしの手に押し付けた後、公園の真ん中にあるジャングルジムをぼうっと見つめていた。組んだ足の上に肘を乗せて、少しばかり前傾姿勢になったまま肘を乗せた手で頬を包むようにしている。わたしは受け取ったペットボトルを両手で持ったまま、その姿から目が離せなくなっていた。わたしの大好きな春くんの指先一本一本がまるで芸術品のように夜の闇に浮かび上がっている。まるでわたしの視線が彼を射抜いてしまうような、そんな恐ろしささえ覚えて、無理矢理に目を正面に向けてペットボトルに口をつけた。ありふれた飲み慣れた味の緑茶がゆっくりと喉を通り抜けていく。流れていく冷たい液体の余韻を感じながら改めてそっと隣に視線を向けると、彼の輪郭や人間特有の温度みたいなものが酷く鮮明に感じられて、いつの間にか少しばかり中身の減ったペットボトルを両手できつく握りしめていた。
 なにを考えているのか、わたしに意識をあまり向けていない春くんにばれないようにそっと、握っていたペットボトルからゆるゆると力を抜いた後に蓋を閉める。彼の腕に光る腕時計や、半袖から伸びる真白く滑らかな肘から手首にかけてのライン。ただ、まるで、愛している、と同じ意味で、春くん、そう名前を呼びそうになってしまった。

「夜の公園って何?とか思ったけど」
「うん」
「言うほど悪くないな」
「……でしょ?」
「そのドヤ顔止めろ」

 ふふふ、といつもと同じように笑って、愛しているという言葉をまた飲み込んだ。大切な言葉は乱用すればするほど薄まってしまうから。
 けれど、まばたきをするたびに、呼吸をするたびに、春くんが喉を震わせるたびに息が出来なくなる。人生でこんな気持ちになったのは初めてだ、こんなに息苦しく人を好きになったことなんて、今までただの一度もない。真っ暗の公園のベンチで、ふたりで手を繋いで、どうでもいいような話をして。ペットボトルのお茶が半分になった頃、春くんが口を開いた。

「そろそろ帰るか」
「なんで」
「顔に眠いって書いてあるから」
「……春くんには敵わないねぇ」
「逆に俺に敵うって思ったことあんの?」
「たまに」
「いつ?言ってみろよ」
「今はちょっと……あの……眠いんで」

 少しばかり強めの視線を向けられただけで、わたしは彼に勝てる気持ちなんて微塵も無くなってしまい、するりと彼の不思議な夜色の瞳から目を逸らした。そんな子どもじみたしぐさにすら手慣れた対応で、仕方ねえな、と呆れたような微笑みを浮かべてわたしに手を差し伸べながら春くんが立ち上がる。

「公園は逃げねぇから、また来りゃいいだろ」

 名残惜しい、そんなわたしの心を読んだみたいに春くんが言うから、黙ったままちいさく頷いて彼の手を自ら掴んでいた。珍しい、と言いたげに軽く目を開いた春くんに気付かないふりをして、わたしはまたきちんとした呼吸をする。
 呼吸と瞬きと、わたしが日々生きるために行うすべての合間に、彼への愛情が滲み出していることを認識しながら。