ゆっくり、ゆっくりと静かに上下する肩。少し開いた唇。身動ぎをするたびにふよふよと揺れる色素の薄い髪の毛。それらすべてを黙って眺めて、このひとも生きているのだと知る。わたしと同じ人間で、ひとつの命によって動かされて。寿命が途切れる日まで呼吸を繰り返す。どんな道を歩こうと、どんな人生を送ろうと。
「……ばーか。ばーかばーか」
ベッドで眠る彼の頬に手を伸ばす。伸ばして、触れる直前で引っ込めた。寝返りを打ってこちらに向けられた背中に少しだけ寂しくなる。疲れているのは知っているのだから、起こさず見守るべきだろうか。けれども、このひとは今日の夜わたしが泣くことを知らない。匂いが、残像が、記憶が、望んでいないというのにどうしようもなく涙を誘うことなんて、これっぽっちも。
「ねぇ、起きてよぅ」
肩を揺すりながら何度か声をかければ、不機嫌をあからさまに出して、僅かに疲労を滲ませたままの片目を開いた。寄せられた眉、まだ眠たそうな瞳、髪も寝癖がついてボサボサだ。
「やっと起きた」
「……ずっと起きてたし」
「ウソ。お昼ごはんできたよ」
どうにか上半身は起こしたものの、下半身は未だ布団の中に収まっているし、ぼうっと壁を見つめたまま返事もしない。低血圧というわけではないのだから、やはり疲れているのだろう。もう少し寝ていいよ、とは言わなかった。わがままも言わないし仕事のことも理解している、彼の恋人にふさわしいわたしじゃない誰かなら、きっと優しく笑ってそう言うんだろうな。
「起きない?先に食べちゃうよ?」
「……起きる」
寝起きの低く掠れた声で返事をすると、這い出るようにベッドからフローリングへ脚を下ろしたのを認めて、先にリビングへ繋がる扉を開いた。テーブルに並べられたふたつのオムライス。ようやく眠気から覚醒してきたのか、半分ほど開いた目をしぱしぱと瞬かせて後頭部を掻いている。のろのろと僅かにおぼつかない足取りでイスに座ってから、卵がちぎれて隙間からチキンライスが覗いている箇所からスプーンでひと掬い。わたしは破けた薄焼き卵の裂け目を無視して端からひとくち食べた。
「見た目は悪いけど味はいいでしょ?」
「……まあまあ」
そこからは会話なんてない、黙々と続く食事。元からあまり食事時に会話を楽しむような質ではなかったけれども、いつもよりも冷えた静謐が下りた空間ではお皿とスプーンがぶつかる金属音すら気になってしまう。お互いに会話を楽しむわけでもなく静かに、淡々と食べていく。そのおかげで彼はあっという間に全部をたいらげてしまった。コップに淹れていた麦茶を飲んで一息つく。ごちそうさまも、いただきますも、いつも聞いているはずの言葉も今日はどちらも聞いていない。わたしは彼のものよりもいくぶんか小さめで、それでもあと三分の一くらい残ったオムライスを引き続き黙って食べていた。
「……さっきのまあまあって、まあまあ悪くないってことだから」
この言葉にすぐ反応できなかったのは、ちょうど口に入れたオムライスを咀嚼していたからだった。もちろん驚いたのもあるけれど。彼はすぐに、見た目は最悪だったけど、と付け加えて頬杖をつく。その手で口元を隠しながら、目を逸らす。よく咀嚼してからオムライスを飲み込んだわたしは、音を立てないようにそうっとスプーンをテーブルに置いた。
「そういうことは、ちゃんと目を見て言ってほしいなぁ」
「とりあえず口拭けば」
わたしの言い分は聞こえていないふりをしているのか、テーブルの端にあるティッシュに手を伸ばして、箱から数枚を引き抜いて渡される。ありがと、と返して受け取ったそれで口元に付いたケチャップを念入りに拭いてから、もう一度じっと彼を見据えた。
「おいしかった?」
「だから、まあまあ」
「また作っていい?」
「見た目も良くする自信があるなら」
「じゃあ味はよかったんだ」
「……言葉のアヤだろ」
「次、がんばるね」
わたしもようやくすべてを食べ終えて、空になったお皿を下げようと立ち上がる。どうしよう、冷えた視線を浴びるのがわかっているから口元を引き結ぼうとしても、つい表情が綻んでしまう。
「……ニヤニヤすんなよ」
「嬉しかったんだからしかたないでしょ」
案の定ドライな視線を向けられてしまったから、緩む頬に手を当ててぐいぐいと皮膚を引っ張る。自分のお皿のついでに彼のお皿も下げようと手を伸ばすと「李依」と名前を呼ばれて、ぱっと顔を上げた。
「ごちそうさん」
不機嫌そうな顔がポーズのようになってしまっている春くんが、眉を下げてひそやかに微笑む。それだけでも珍しさに驚いてしまうというのに、不意打ちでそんなことを言うものだから、今度はひどく泣きそうになってしまう。いっぱい、いっぱい練習して、次は絶対に完璧なオムライスを作ろう。