366日目の浜辺より追慕



 意外と長い睫毛だとか、いつもより少し色が強い気がする唇だとか、平生は気にも留めない所ばかりが目に付いてしまう。は鼻が付いてしまいそうな程水槽のガラスに顔を寄せて自由に泳ぎ回る魚たちを見ていた。水族館はデートに最適、だなんて何処の誰が言ったんだろうか。暗めに設定されている照明も、腕を組んで背後を通過して行った他所のカップルも、何にも悪くない。それでも、俺は先程から順路通りに進む彼女の背中か、或いは海の生物たちをじいと見つめる横顔しか見ていない。加えて、あまりにも真剣な眼差しで見ているものだから安易に話しかけるきっかけさえ奪われていった。ちょっと座ります?と彼女から問い掛けられるまで、俺はただただ黙って後ろをついて歩くしかない。少し考えてから無言で頷いて、大きな水槽を真正面に構えた背凭れのないベンチソファに二人で並んで座った。

「神戸さん、つまらないですか?」
「いや、それは俺の台詞だ」
「どうして?」
「先程から全く喋らないだろう」

 ここで漸く目が合ったけれど、彼女の目線はまた直ぐに魚たちの住む世界へと戻る。二人分のチケットを見せた時にはそれこそ文字通り花が咲きそうな笑顔で快諾してくれたものだけれども、本当の所は無理やり誘ってしまったんだろうかと不安が付き纏い、会話の無い時間が続く程にその思いは比例するように増していた。彼女の瞳に反射して映っている水槽の青色がやけに綺麗で、次の言葉に詰まってしまう。ぽつり、彼女が何かを言ったけれど小さすぎて聞き取ることが出来ずに訊き返せば、たった今まで海を閉じ込めていた瞳が真っ直ぐにこちらを見た。

「……神戸さんが誘ってくれたのが嬉しくて。なにを話したらいいのかわからなくて、ずっと魚に夢中なフリしてました」

 どうやら照れているらしい。誤魔化すように、眉を下げたは子どものように表情を弛ませて笑った。

「誘われてから、ずっと考えてたんです。これってデートだよね、とか、手を繋いだりとかするのかなって。そうしたら頭の中パンクしちゃって、神戸さんの顔も見れなくなっちゃって」

 決して明るくないこの場所でも、彼女の耳と頬が赤く染まっていることが鮮明に分かった。俺が何か言うよりも先に、彼女があまやかな空気を打ち消すように「そろそろ行きましょうか」と付け加えたから慌てて言葉を紡ぐ。なあ。引き止めるように発した声は自分でも驚いてしまう程に頼りなくて格好悪くて、それでも彼女は優しく首を傾げた。

「俺もずっと、今日の事を考えていた」
「今日のこと?」
「今日の事をと言うか、お前の事を」

 手を繋ぎたいと素直に言った方が良かったのだろうか。言っても良かったのだろうか。僅かな時間、周りの賑やかな声も聞こえない程に沈黙が響いていた。気まずくないわけではないが、それでも彼女の本心を知れて心は随分と軽くなったように思う。

「深海魚、見に行きません?」

 彼女が指差した方へと視線を移した。進路順に行けば次はどうやら深海魚のエリアらしい。俺は先に立ち上がって歩幅を合わせるように彼女の隣を歩いた。

「深海魚って、良いですよね」

 ある程度予想はしていたが、そのエリアは今までとは比べ物にならない位に照明が少なかった。住まう魚たちの特異な容姿のせいだろうか、足早に過ぎていく人やその奇妙な形姿を怖がって泣き出してしまう子どもも居るようだった。彼女がまたガラスに顔を寄せたから、つられるように俺も少し腰を屈める。先程の発言に返事をしない俺を不思議に思ったのか、今までより近い距離でこちらを向いて同意を求めてくる。暗闇の中だからか、ぼんやり映る彼女の輪郭にすら見てはいけないものを見ているような、踏み込んではいけない聖域に近いようなものを感じている自分がいた。

「イルカだとか、もっと万人受けしそうな生き物が好きなものだと思っていたが」
「確かに、深海魚って見た目がグロテスクなのが多いですよね」
「どんなところが好きなんだ」

 俺がそう訊くと、彼女は一つだけ控えめに明かりの灯った小さな小さな水槽に視線を戻した。その中に住むお世辞にも可愛いとは言い難い魚を見つめている。俊敏な動きや華麗な泳ぎを見せるわけでもない、ただそこに静かに佇んでいるだけだというのに彼女の視線を奪う魚を恨めしくも思った。深海魚だなんて人間にとっては未知の存在だ。こうして水族館に来ることがなければ生涯目にすることはないだろうし、その必要性もないだろう。けれど光も届かぬ深海で、静かに肌で呼吸をしながら水の流れに身を任せて泳ぐその様はどんなに実直を旨とした修辞法を用いようとも表せない程に孤高の存在であるように思えた。

「理由は、これといって特にないんです。でも心を奪われるというか、いいなって。好きだなって思います」

 水槽を叩かないでください、と大きく注意書きのされたラミネートが貼り付けてあるが、今日ばかりは人差し指でガラスを突きたくなった。なんて惨めな嫉妬だろうか、しかも相手は深海魚だ。

「今日は誘ってくれて、ありがとうございます」

 このタイミングで言われても、正直喜んでいいのか分からない。彼女はひたりと水槽に手を付けて、未だにまじまじと深海魚と見つめ合っている。ああ、と一言頷いたけれど、気が気じゃない。くそ、深海魚になりたい。