Idea01



 ソファに深く腰かけ、テレビの液晶画面を見つめる神戸さんの横顔、指先、その癖を見ていた。
 いつからわたしが知覚したのかは忘れてしまったけれど、身体を背凭れにすっかり預けて肘掛けに頬杖をつきながら唇を触っているのは彼がそれなりに集中している時の癖だった。あんまりわたしに注意を払っていない感じが好きで、言ったらきっと少なからず意識されてしまうだろうから黙っている。見ていることに気づかれることは構わないけれど、どういう理由で見ているかを知られると意味が無くなってしまうからだ。神経質さと子供っぽさ、わたしを包むごくたまの笑顔ときちんとした大人の余裕の代わりに、確実に剥き出しになる部分も神戸さんの確実な一部であることが余計にわたしにその行動を執着させた。
 携帯を触ったり、本を読むふりをして、合間にちらちらとその横顔を見つめては安心するのだ、今日もそういう彼が存在していることに。どういう意味での安堵なのかは確実にわかっているわけではないけれど、わたしの為ではない彼がいることが嬉しいのだと思う。
 わたしを見てほしい、という気持ちと同じくらいに、わたしを知らないでいて欲しい、と考えているのだ。そして、神戸さんのことを知りたいと思う反面、まったくなにも知らないでいたい。だからわたしの隣にいて、けれどわたしに注意を払わない彼の剥き出しのちいさな部分はわたしにとって特別で、いつでも見てしまう。

「何を呆けているんだ」
「……え?」
「本、進んでいないぞ」
「んー、考え事してました」
「何かあったか」

 神戸さんが一時停止ボタンを押した後もそのままリモコンを握り、何度も持ち直しながらこちらを見た。まるで彼がわたしを見て話すことができるなど知らなかったような気になって、言葉も一緒に失ってしまう。リモコンをくるくると数回持ち直してから、飽きたのかさっとテーブルに滑らせる。ぱちんといういつもなら軽薄にすら聞こえるテレビの消える音が、ギロチンの落ちる音のように聞こえて思わず肩が跳ねた。
 今日、神戸さんがここへやってきてからどれくらいお互いがお互いの好きなことを推し進めるだけの時間を過ごしていただろう。手元にあった買ったばかりのハードカバーは内容云々ではなくまずハードカバーが手に馴染まずに、読むのに時間がかかっていた。横に神戸さんがいればついつい視線がそちらに向いてしまうのも仕方がないことだろうというのは独自の理論であって、到底彼に理解されるものではない。けれど、曖昧に誤魔化したり嘘をつくといつも彼は更に疑り深くなり、更に真剣にわたしを問い詰める。本当に行き場がなくなるように、どんどん後ろに下がって、でも後ろには壁しかなくて、じりじりとその壁に近づくだけのような時間。あの息苦しさを味わわないで済むのなら、進んで味わいたくはないのだ。
 ただ、わたしは誤魔化しも嘘も驚くほどに不得手で、なのにうまい嘘や誤魔化しをしようとしていつもあの息苦しさを味わう羽目になる。大体が拍子抜けしてしまう程にどうでもいいような内容のことばかりで、問い詰めた彼の方が気が抜けた顔をするのに。わたしは大概学習能力がなく、彼は今度こそ大事な内容かもしれないとなぜか確信を持つのだ、いやになるほど。

「ハードカバーが持ちづらくて」
「……それだけか」
「由々しき問題ですよ、高いし、どうせ文庫が出たら買うのに買っちゃったわけだし」
「我慢すればいいだろう」
「売れないと文庫出ないかもしれないじゃん……」

 口に出してみるとその言葉は本当にそれで悩んでいるかのようにきちんと聞こえて、それは実際一部にその悩みがあったからで、嘘をつくには真実の間に混ぜると良いという方法論を考えるでもなく実践したようだった。
 わたしの掌のかたちに全く馴染むことなくきっちりと角が掌に刺さるハードカバーを神戸さんが取り上げて、「確かにな」と言った。彼の手を持っていたらもしかしたらこの悩みはなかったのかもしれない、と雄勁な指先を見つめて考える。
 当たり前のように自分よりいくぶんも大きい掌が自分の持っていた本を軽々と持ち去るさまを眺めて、明るすぎる電気の光に当てられて少し青みがかって見える彼の瞳と、横顔を、切ったばかりらしいいつもより短い爪の形を、本をテーブルに置く指先の動きを、また、慣れることも飽きることもなく見た。
 覚えていたいと思う一瞬をいつも必死にふたつの眼で取り込んでいる筈なのに、新鮮に彼を見て驚いて、あんなにも見ていた筈なのに新鮮に驚ける自分にも驚いてしまう。神戸さんと会うたびではなく、神戸さんがそばにいる時間の隙間でいつもふいにやってくるその感覚に、いつも子供のように単純にわたしは戸惑い、その戸惑いを隠す術もまだ学べてはいない。
 はるか遠くに見えるテーブルの上に置かれたハードカバーの表紙の金色で形作られた本のタイトルをじっと眺める。まるで、今だったらきちんと本が読めるのに、本が遠くにあるせいで、彼がいるせいで読めないだけだという偽物でしかない気持ちで。

、こちらを向け」
「な、んですか、急に」
「なぜ逸らす」
「恥ずかしいじゃないですか」
「今更照れるような間柄じゃないだろう」

 伸ばされた手はやけにあたたかかった。反射的に閉じられた瞳を開けさせるような甘い呼びかけはなく、ただわたしは瞼をきつく、きつく閉じる。眉間にきつく寄った皺を彼の指の腹が撫でほぐすように押し付けられ、マッサージするかのようにゆっくりと動いた。「俺が、何かしたか」という単純な疑問らしい神戸さんの声と共に眉間を押され、わたしはゆるゆると目を開ける。視界には、見慣れた家具や壁の色やあまり片付いていないごちゃごちゃとした部屋のあれこれもあるはずなのに、神戸さんの顔だけがわたしの視界めいっぱいに入ってくる。唇が触れるほど近くもない、手を伸ばして眉間が触れる程度の、逆に言えば、手を伸ばさなければ触れられないほどの距離。なのに、わたしの目の中、記憶の中いっぱいに染みつくのは神戸さんの顔だけで、ほんのごく僅かに眉を下げこちらを見る目を見て、ようやく身体中の力が抜けていった。
 どちらかといえば付き合いたての恋人同士のような絡みを殆ど忌み嫌い、熟年夫婦のような距離感でずっと隣にいたけれど、会うたび新鮮に神戸さんに照れていたと言ったら彼は笑うのだろうか。もちろん昔も今も今後だって言うつもりはないけれど、会うたび新鮮に見惚れていたことと照れてしまっていることはきっと同じことだ。当たり前のように会話をしている大半の時間以外に、たまにどうしてかびっくりするくらいなにもわからなくなる瞬間は、彼に近づいている密接な瞬間ではない、本当になんでもない時間に訪れてはわたしを困惑させる。いつの間にかまた俯いてしまっていた顔をゆるゆると上げると、自分の耳が驚くほどに熱くなっていた。わざわざ触れなくてもわかってしまう程には。

「あー……、恥ずかしい」
「なぜだ、恥ずかしくはない」
「神戸さんはね、」
「俺だって我慢しているかもしれないだろう」
「余裕ぶってるくせに」
「そう、ただ余裕ぶっているだけだ」

 涼やかかつ嘘くさい声と顔でいけしゃあしゃあと神戸さんがそう言って、わたしの顔に手を伸ばした。なくなった眉間の皺を確認するように何度も指先で眉間に触れてから、まるで汚れでも拭うみたいに頬を撫でる。「本当に照れているのか」ぱちりと目を瞬かせてやっと理解したかのようにそう言って神戸さんがわたしの顔から手を離した。テーブルにある本を手に取ってわたしの膝の上に置いた後で、「邪魔して悪い」と彼は言うけれど、その後ろ姿は言葉よりも雄弁で、本の角でその綺麗な後頭部を殴ってやろうかと思う程には感情を支配されている。
 彼の掌の上で踊ることほど癪なことはない、生きている神戸さんが傍にいるだけで感情の整理がつかなくなる瞬間があるというのに、本人に恣意的に踊らされるなんて、と思いながらも、本の中の世界が今の心を満たすわけも、文字が頭に入る訳でもない。ただ神戸さんがテレビをつけるつもりもなく、大した理由もなく英字新聞を開いてぼんやりとしているその様を見る。
 本をテーブルに置き直す音で彼の肩がぴくりと僅かに動く。意外と似た者同士かもしれないのだけれど、と考えながら、いかにも高級そうな彼の服の袖を皺になってしまわない程度にそっと掴むと、待っていたかのように神戸さんはこちらを振り返る。わたしよりずっと嘘をつくのが下手な彼の顔を見て、また彼を純粋に好きになった気持ちを隠すことを止めて笑ってみると、心も身体もずっと軽く、熱くなっていくのだった。