「愛とは」朗々とした声で李依が言った。
有り触れた俗っぽい女性誌をまるで聖書かのように開き、信託を得た巫女のような面持ちで彼女はもう一度「愛とは」と続ける。その言葉に疑問符を付加したニュアンスが混ざっている事に気付いたのは、じっと見つめる彼女の瞳が僅かに揺れた頃だった。
「俺に訊いているのか」
「そう、神戸さんに訊いてるの」
「その誌面にはなんと書いてあるんだ」
「カンニングは禁止です」
狡猾な俺の逃げ方を知っている李依は直ぐにそう答え、目の前でシャッターを下されたような気分になる。手が付けられない女だと思った事はないけれど、深淵を態々覗く様な忍耐力を俺は持っていない、とも思う。
愛とは、と依然巫女のような面持ちのまま俺に問いかける彼女より、そんな目に見えない不確かな事を軽率に書く雑誌、というより世間に俺は僅かに疑問を抱いた。基本的に、物事を深く考えすぎないようにしているのだ。延々と考えるべき事とそうでない事は絶対にある。
李依が俺に問うた質問こそ、「死とは」だとか「幸せとは」だとかそれらと同程度に考える必要のない言葉の筈だというのに氾濫してばかりだ。
ふと、愛とは、という朗々とした先程の声を思い出して、俺は内心で少しだけ笑ってしまう。俺の知る彼女は誰よりも氾濫した愛や幸福や永遠を信じない、寧ろ愛に永遠だなんて付けてしまったら怒りすら及ぼす性格である事を。
「愛、な」
「時間稼ぎしてないで答えて」
「俺がお前に持っていて、お前が俺に持っている感情」
「それは同じ?」
「質量は違うと思うが、それは人に依るだろう」
「ふうん」
ぱたん、と雑誌を閉じた李依は納得したようにひとつ頷いて、俺の隣にやってくる。「手、貸して」声は平生と同じ淡白さで、同じ温度で、質量で、きちんと耳に届く。仕方無しに差し出した俺の手を両手で掴んだ彼女は俺の指に触れた。確認するかのように爪を撫で、指の節を人差し指と親指で挟んで、すっと動かす。
呼ばれてはいない事を知ったうえで、「神戸さん」、と幼子の様な彼女の声が俺を呼んでいる様な気がした。平生は出さない、どこか心細そうな声。世界が美しくないと、恐ろしいものが取り巻いていると、初めて気付いてしまった、まるで悪夢を見た後の様な顔と声で。
「俺の、お前への気持ちが愛だと言ったら信じるのか」
「違うの?」
「なぜそんな顔をするんだ」
李依の指先が俺の手から離れ、梯子を外されたような顔で俺を見つめて、浅い呼吸をひとつ零した。神戸さん、と呼びたげに見つめる瞳は信託を得た巫女ではない、外で見せるただの大人の女でもない、俺にだけ見せるそれ。
俺は両手で彼女の頬を包んで、顔をそっと近づける。繊細な睫毛がゆったりと動いて、俺の視線から逃げる様に目を伏せる。温かくも冷たくもない彼女の頬に両手を置いて軽く押すと、唇が蛸の様な形に変化した。むにゅりという間の抜けた効果音以外当てはまらない唇と頬の感触や動きに、俺はいつの間にか口角を上げて笑ってしまう。
「なあ」
「……あに」
「俺の事も、愛だとか永遠だとかを信じられないと言うのも良い」
「うん」
「信じてくれとも思わんが、俺はお前の事を愛している気がする」
蛸の様な形の唇のまま、もごもごと口を動かす李依の言葉が続かないようにぐっと両手に力を込めると中々悲惨な光景になった。「不細工だな」と鼻で笑いながら言うと直ぐにまた泣き出しそうな顔をするから、俺はぱっと両手を離す。そして、沢山の言葉を喉に留めていたであろう彼女が口を開いて話し出す前に「嘘だ」と俺は言う。直ぐに瞳の色が変わり僅かに安堵の表情を見せた後、それすらも無かったような表情に戻る。
「……別に、信じてるし」
「ああ、知っている」
「うるさい」
どこか拗ねたような声と、小さく弱々しい握り拳が肩に当てられ、嗚呼、愛されている、と感じた。
愛、永遠、幸福、死、よく解らない漠然とした沢山の要素から彼女を守るのは恐らく俺だけなのだろう。正確に言えば、結果的に死ぬまで俺だけが彼女の世界を、俺の世界で暮らす彼女を、守りたいと思う。これを愛と云うのかエゴと云うのか、考える事はとっくに止めていた。
だから、俺は綺麗な言葉、耳障りが良く聞こえの良い言葉で告げるのだ、「愛している」と。
状況が状況ならば寒いと評されるような気恥ずかしい言葉も、彼女の目の前ではただの酸素ボンベや食事と何ら変わらない。
別に必ずしも「愛」が正しい事とイコールではない、と俺はもう知っている。そしてこの愛の形と、彼女が俺から与えられていると信じきっている愛の形が違っている事も。けれど、そんな事は別れの時が来るまで、否、一生知らなくてもいい事なのだ。
「神戸さん」
「なんだ」
「ありがとう」
「ああ」
手を伸ばし、細くさらさらした赤子の様な髪に指を通して、梳く様に撫でる。そのまま下ろした手で、左耳に付けられた華奢な金色の丸いピアスに指先を押し当てて耳介横筋を撫でる。
李依の名前を呼ぶ瞬間も、触れる瞬間も感じる俺の愛情を、彼女には一生傲慢に享受していて欲しい。安い愛の言葉も、薄っぺらいサプライズでもない、生活に染み込んだ俺の愛から出て来る事はしなくても良いのだ。ただ只管に安心しきった顔の彼女の手を取って、「どこか行くか」と尋ねるとゆっくりと首を左右に振り、俺の手をそっと払って、ローテーブルに置かれたリモコンを手に取りボタンを押した。丁寧にソファに座り直した後、迷い子の様な目でこちらを見つめる。
よく分からない、俺も李依も恐らくは見た事の無いであろう野生生物のドキュメンタリーらしき番組の音声が流れ始めた。嗚呼、勿論付き合うとも。心の中で呟いた俺はまた少しだけ唇の端を上げて、自覚のないまま誰よりも酷く純粋に愛や永遠や幸福を信じきっている彼女の瞳を見つめ返した。