裁きなんていらない



 携帯の画面を見て、救いようのない朝をひとり迎えている。
 なにもない、休日、休む日という言葉に従ってうまく休むことすらできない自分。規則正しく目覚めても自分を急かす予定はなにひとつなく、広すぎる冷えたシーツの上で足を伸ばした。寝ていた実感も湧かないまま、始めるには早すぎる朝を直視してしまわないように布団を頭まで被る。もう一度うまく眠りたいときつく目を閉じてみても、眠気は襲ってくるはずもない。かなしいほど冷え切った足先を擦り合わせて、一分とも三十分ともつかない時間をただ丸まって過ごしていた。カーテンの隙間から入ってくる光は、どんどんと明るさを、あたたかさを、眩しさを増していく。誰かと会いたくて、誰にも会いたくない朝をやり過ごす方法を、いつも探している。
 よろよろと起き上がって真っ直ぐにキッチンに向かい、食器棚から取り出したマグカップにココアパウダーを落とした。お湯というにはぬるい水で粉を軽くペースト状に溶かしてから牛乳を注ぎ入れ、スプーンを差し込んだまま電子レンジに押し込む。まだ覚醒しきっていない頭のまま、くるくると回るマグカップを眺めていた。二分ほどして温め終わったココアを取り出して熱くなったスプーンで奥底の粉まで溶かす様に混ぜる。ココアを持ったまま、まだ少し冷えているリビングの椅子に座ってちいさく息を吐いた。
 枕元に起きっぱなしの携帯を遠ざけている理由は特別ない。仕事が好きかと言われたらそうではないけれど、辞めたいほどのなにかもない。また、このココアを飲み終えて、部屋を片付けて、洗濯をして、食料を買いに行って、本を読んで、そうして一日が終わる。会いたい、と気軽に言える誰かが近くにいてくれれば楽なのだろう。温め方の足りないココアを一気に飲み干したあとで、枕元にある携帯を掴むために立ち上がる。仕事とプライベートでおよそ半々になっている連絡のなかで、下の方にある彼との会話の履歴を眺めた。「今日、暇?」打ち込んだそっけない文字に既読と「暇です」という返事が来たのはマグカップを洗い終わった頃だった。
 彼からの着信と「どうしたんですか」という活字が違う枠で寄り添うように浮かんでいる。折り返しの電話を掛けると、ワンコール聞き切る前に電話が繋がった。

「ごめん、いま洗い物してた」
『や、大丈夫です』
「亀井くん、今日、暇かな、と思って」
『めちゃくちゃ暇です、めちゃくちゃ、そりゃもうめちゃくちゃ』
「……そう」
『なんですか』
「誘ってくれるって言ってたのに、わたしから誘っちゃったよ」

 もう一杯ココアをいれれば良かった、手持ち無沙汰になっている片手を開いて、閉じる。彼が向こう側で小さく唸って、『いや、ほんとに誘っていいか、迷惑かと思って』空白の多い彼の声をゆっくりと聞いた。携帯を耳に押し当てながら「行きたいところもやりたいことも特にないんだけど」とクローゼットを開きながらわたしは言う。亀井くんはわたしのその言葉を聞いて喉を動物じみた純粋さで鳴らした。職場には絶対に着て行かないであろう、鮮やかで春めいたお気に入りの服をベッドの上にいくつかゆっくりと横たえる。

『デートでいいんすよね』
「定義は任せる」
『……わかりました』
「今から準備するけど、いい」
『ぜんぜん、じゃああとで連絡します』
「じゃ、あとで」

 通話がぷつりと切れ、わたしは携帯をベッドの上に放り投げた。「わかりました」の声に隠そうともしないかすかな笑い声が混じっていたのを思い出して、わたしは遅ればせながらもつられて笑ってしまう。こういうわたしを、笑い飛ばしてくれるのが亀井くんの不思議な所なんだよなぁ、と彼のことをたいして知りもしないくせに思った。だから、あの時の彼の言葉を真に受けて連絡までしてしまったのかもしれない。持っている中で一番小さな鞄に荷物を詰め替えながら、テレビをザッピングしてニュースのチャンネルに合わせた。天気予報はもう終わってしまっただろうか。
 結局、一番気に入っているワンピースとカーディガンを着ることにして、出勤と同じような速度で準備を始める。出勤時と少し違うのはピアスがやや大ぶりなことだとか、アイシャドウの色やリップの色が鮮やかなことくらいだろうか。顔を洗うことも、歯を磨くことも、髪を巻くことも、化粧をすることも、なにもかもが至極当たり前のはずなのに。本当は、本当は少しだけ、亀井くんが忙しい、とわたしの誘いを断わってくれていたら良かったのに、と思ってしまった。あのあとすぐに送られてきた待ち合わせの場所も時間もわたしに寄り添ったもので、わたしはひとつひとつを確認しながら準備をする。鏡に映った自分は、ベッドの中で携帯を遠ざけていた自分とはまるで違う人間のようだった。いつもより鮮やかなルージュで彩られた唇に視線を移してきゅっと口角を上げてみると、それはなんとなくきちんと笑えてるように見えて、ちゃんとした大人と言っても差し支えはなさそうだ。靴箱から久しぶりに履く細いヒールの靴を取り出してストラップをつける。カツ、カツ、と軽快に靴音が鳴り、待ち合わせより幾分か早い時間にわたしは家を出て駅へと向かった。
 改札に滑り込む瞬間も、電車に乗り込んだ時も、手袋を外しながらも、亀井くんはどんな表情をして今日のわたしを見るのだろうかと考えていた。好きか好きでないかといえばよくわからず、その優しさみたいなものが今のところ一番無償に近いから甘えてしまった。待ち合わせの駅の改札を潜り抜けると、わかりやすい指定の場所には同じように待ち合わせであろう人がごった返しており、休日というのはそういうことか、とひとりで納得する。隅の方を陣取って携帯を開き、彼に連絡をしようと文字を打っていると「冠城さん」という声が降ってきた。

「あれ」
「早くないですか」
「早く着いちゃった、亀井くんはいつからいたの」
「や、俺もいまさっきっす」
「そう、よくわかったね」
「分かります、たぶん」

 「多分かぁ」「いや、じゃあ絶対」「どっちでもいいかな」
 ゆっくりと歩く亀井くんの横でそんなどうでもいい言葉を交わしながら、ちょっとだけ横顔を眺める。精悍な、きっちりとした顔なのに、唇だけちょっとだけ可愛いかたちで動いていた。なにも考えないこんな傲慢な時間を持つなんて信じられない、と思いながら、彼の横にぴったりとくっつく。耳朶にピアスがあることに初めて気が付いて、小さな声で「あ」と言うと、彼がわたしを反射的に見つめる。印象的なしっかりとした二重、はっきりした睫毛に縁取られた瞳が、大きさと裏腹に思慮深く、臆病な動物のようにわたしを映した。

「ピアス、開いてたんだなぁと思って」
「あー、はい」
「気付かなかったなぁ」
「そう、っすね」
「かわいい」
「……冠城さんも、かわいいっす、まじで」

 わたしがなにかを返す前に亀井くんは歩き出していて、わたしは彼の横をボディーガードの如くついていく。人混みの中でも彼は大きく、わたしは人をすり抜けるのが上手く、ずっとひたすらに彼の横にぴったりとくっついていた。わたしが彼のピアスに言ったかわいいと、彼がわたしに言ったかわいいの意味の違いを上手くまだ理解できないまま歩いていく。少し前にわたしの家でひとりぼんやりとテレビを見ながらわたしが起きるのを待っていた亀井くんを思い浮かべてみる。目が覚めたわたしをあっさりと置いてデートの約束を取りつけたくせに連絡してこなかった亀井くん。あのあと、彼はどんな顔で家に帰ったのだろうか。

「楽しい」
「まだなんもしてないっすけど」
「最近ずっとひとりだったから」
「じゃあ今度は、俺、誘いますね」
「とか言ってまたわたしから誘うことになったりして」
「いや、絶対、ほんとに」
「わかったよ」

 眉を寄せて真剣にそう言う彼にわたしは笑い声の混じった言葉を返す。「飯、行きますか」といった彼の声に頷いてから、そういえば朝食をすっかり食べ損ねていたのだと気が付いた。小さな、持ち慣れない鞄を何度も肩に掛け直しつつ、彼の耳にくっついたちいさな銀の飾りを眺める。
 きらきらと光る銀色と、亀井くんの横顔と、ビルの隙間に見える空と雲と、襲ってくる空腹感。あたたかい冬と春の境目の空気を思い切り吸い込んで、睫毛の先でも受け止めるように瞬きをした。