星野さんを好きになってから、ずっと息が苦しい。
この気持ちが消えてくれるようにとどれだけ強く願ったことだろう。考えれば考えるほどに膨らむ思いは宛て名のない手紙みたいに行き先が見つからない。白い息を吐くミルクティーのように、時間の流れと共に冷めてくれたらいいのに。好きだと素直に、心のままに伝えられたら、それはどんなにしあわせなことだろう。
姉の恋人である、星野さんに。
「私ね、彼氏ができたの」
姉からそう告げられたのは、一年前のこの時期だった。
二人姉妹で同居生活をしているわたしたちはその時、こたつに足を入れて寄せ鍋を直箸でつついてた。さっきまで豆腐がおいしく感じるのは歳をとった証拠かな、なんて取り留めのない本当にどうでもいい話をしていたのに。姉から唐突にそんなことを言われて、一瞬目を瞬いて言葉までもを失った。口の中にあった白菜をゆっくり咀嚼、飲み込んでから、次に生まれた感情は喜びだった。良かったね、そう湯気の向こう側の姉に伝えたら嬉しそうに目を細めて笑う。もしかして、もう一緒に暮らせないの?と少し不安になりながら訊くと、気が早いよ、と笑い飛ばしてわたしを安心させてくれた。
どんな人?どこで出会ったの?なんて呼び合ってるの?興味本位で次から次に質問を重ねるわたしに、姉はずっとしあわせそうに答えてくれた。鍋のシメに雑炊をとキッチンに戻った姉はご飯を煮詰めて卵を回しかけながら、いつか李依にも紹介できたらいいな、と独り言のように呟いた。背中からでも感じる優しいオーラにわたしは、嬉しいけれどほんの少しだけ、どこか寂しいような複雑な気持ちが芽生えていた。煮詰め過ぎて汁気がほとんど飛んで辛くなってしまった雑炊を、あと何回一緒に食べられるのだろう。そう考えたら、唐突に母親へ電話をかけたくなった。
昨年の冬の出来事が、今でもありありと鮮明に蘇る。
「どうも。初めまして」
わたしが初めて星野さんと会ったのはゴールデンウィークの終盤だった。姉が仕事の休みを取って星野さんと海外へ旅行をしていたから、帰国したその足でわたしの部屋へ来てもらい、三人で夕飯を食べた。ゴールデンウィークも関係なく仕事で働き詰めだったわたしは、その日だけは残業をせずに真っ直ぐ家へ帰って部屋に掃除機をかけ、前日にスーパーで買っておいた食材でつまみ程度にはなる料理をいくつか拵えた。姉からさんざん話は聞いていたし写真を見せてもらったこともあったけれど、やっぱり初めての対面は相応に緊張した。玄関のドアが開いて、姉の後ろに立っていた星野さんがわたしを見て会釈するように軽く頭を下げると、蘇芳色の艷やかな髪がさらりと動きに呼応して揺れた。
「お姉ちゃんお帰り。星野さん、初めまして。冠城李依です」
写真だけを見て勝手に想像していたよりも、姉と背丈が近い。一度だけ見せてもらった写真の彼はかっちりとしたスーツ姿だったから私服とのギャップで尚更そう思ったのかもしれないけれど、実物の方が優しそうな雰囲気を纏っている人だと思った。大きなキャリーバッグを引いて帰ってきた二人がどこからどう見てもしあわせそうで、わたしは誇らしさを感じると同時にほんの少し羨ましかった。それから部屋へと上がって、姉が久しぶりの日常に腕を伸ばして歓喜していたから、こっちはずっと平凡だよと拗ねた子供のように言えば、仕事お疲れさま、と星野さんが言ってくれて、わたしはなんと返せばいいのか分からずに中途半端な返事をした。
「李依さん、料理上手だな」
ちょっと多いかな、と思いながら作った料理は、予想に反してあっという間になくなった。星野さんは丁寧に美味しいと言ってくれて鼻が高かったし、それと同時に姉はしあわせだろうなとぼんやり思った。私と違って李依はできる子だから、と朗らかに笑う姉は、星野さんに大切に愛されているんだろうな、と。お土産だと二人がくれたマグネットの詰め合わせは日本でも探せばどこかに売ってそうなものだと内心思ったけれど、それはもちろん言わずに飲み込んで、ありがとうと快く受け取って冷蔵庫の扉に貼っておくことにした。
「……ちょっと相談したいことがあるんだけど」
姉からそう切り出されたのは、秋が始まる頃だった。
今日は半袖にしようかな、いや長袖かな、そんなことを毎朝悩まないといけないような、季節が移り変わる頃。わたしはすぐに、なに?と聞き返したけれど、姉が言いたいことはだいたい分かっていた。
夏の間、あんなに部屋へ呼んだり遊びに出掛けていた星野さんと今ではめっきり会っていないという。本当は、姉から相談される数日前に星野さんから連絡が来ていたから知っていたことだ。別れたいと言われた、らしい。私に何かあったときのために!とお酒を飲んで酔っ払った姉が真剣な顔で言ってきたから、言われるままに星野さんと交換した連絡先。使う機会なんてついぞ巡ってこないものとばかり思っていたからこんなことで使うことになるとはと正直思ったけれど、わたしは星野さんと連絡を取り続けた。今日は友達と飲んで帰るから、と姉に嘘を吐いて仕事終わりに会ったことも、何度かあった。姉の知らない星野さんに会うのは罪悪感と優越感が入り乱れる、なんとも言い難い感情だった。わたしはずっと、姉のようになりたかったから。
「他に、気になる人がいて」
秋の夜長、姉の声は澄んでいた。その時点でもう、迷いはなかったのかもしれない。
わたしと違って、姉は可愛かった。スカートが似合うだとか、ピンク色が好きだとか、コスメの流行に敏感だとか、可愛いの基準が人それぞれであっても、わたしにとって、確かに姉は可愛かった。わたしに無いものを持っていた。よく笑うし愛嬌があるし、周囲の人間から好かれることがわたしより断然多くて、この人みたいに生きられたらどんなにいいだろうと今まで何度考えただろうか。
新しい恋の予感に気持ちが振り切っている姉からすれば星野さんはもう既に過去の人で、それを悟った瞬間にわたしは目の前が真っ暗になった。喜びは、まったく生まれなかった。
「……あぁ、そうなんだ」
わたしは動揺が表に出てお皿を取り落とさないよう慎重に洗いながら、姉の言葉を受け止めたように頷いた。当然、星野さんには言えなかった。言えなかったけれど、姉は良くも悪くも分かりやすい人だから、わたしが知るよりもずっと先に、聡い星野さんはとっくに気付いているのだと思う。
「……星野さんは?」
一緒に暮らし始めるとき、食事の後片付けを当番制にしていて正解だった。わたしは姉に背中を向けたまま、ぎりぎり届くか届かないかの声量で問いかけた。食器にまとわりついた泡を流す水の音が台所に響いてうるさかった。それに、耳元で逸る自分の心音も。
「――別れたいなって、思ってるよ」
その時、姉がどんな表情だったかまではわからない。それでも、少なくとも重みを含むような悩んだ声色ではなかった。まるで、今夜は鍋にしたいな、だとか、スマホの機種変更したいな、みたいな。気の向くままに吐き出されたひどく軽率な空気を孕んだ言葉に、わたしはどうしてか心底悲しくなってしまって、その夜は枕に顔を押し付けて静かに泣いた。
「……どうなったの?」
あれから、とまるでふと思い出したかのように、勇気を出して姉に聞いたのは、夕飯の後に二人でミルクティーを飲んでいたときだった。
暖房とこたつがないと寒さに耐え難くなるくらいの真冬。街はイルミネーションが光って、もうすぐクリスマスだとたくさんの人の気持ちを急かす時期だった。何が?と冗談なのか本気なのか判断しがたい顔でとぼける姉に、星野さんの名前を出すとあからさまに困った顔をしていた。
連絡はたまに来るけど返していないこと、もう、彼に対して気持ちがないこと。わたしは至って冷静なフリをして聞いていたけれど、本当は星野さんから全部話を聞いていて、多分このまま自然消滅かな、と言っていたのも知っているから、どうしても当人に確かめておきたかった。いいの?とつい訊きかけたけれど、それはおそらく愚問だった。姉は明日仕事終わりでクリスマスプレゼントを買いに行くと夕飯のときに言っていて、星野さんが明日姉に会いたいと伝えていることもなにもかもを知りながら、わたしは何も知らないフリをして行ってらっしゃいとだけ伝えておいた。
「夕飯もう作ってる?」
次の日、姉からのメッセージを受信したのは、ちょうど18時だった。
わたしがまだ会社にいると返信すれば、夕飯はいらないとの短い言葉に一瞬星野さんのことが頭をよぎったけれど、すぐに別の男性が相手だと匂わすメッセージが続けられた。星野さんとわたしのやりとりは二日前の、星野さんが送ってきた見たことはあるけど名前が思い出せないキャラクターのスタンプで締めくくられている。ついに我慢できなくなって姉にメッセージを送っていた。
「星野さんはいいの?」
今までの罪悪感や劣等感を、すべてまとめてかぶってもいい。罪を全部認めて、地獄に突き落とされても構わない。わたしは、星野さんのことが好きだった。だから、星野さんにしあわせになって欲しかった。
送ったメッセージに既読の文字がついても姉からすぐに返信が来ることはなかった、というよりも、もう気にかけて画面を見ることはなく、気づけばわたしはスマホをコートのポケットに突っ込んで会社を飛び出していた。星野さんが待っている場所は知っていた。二人が、初めて二人きりで会った場所。今の時期はイルミネーションが綺麗で、いわゆる映える場所になっていてカップルの聖地らしい。わたしはそんな場所に行ったことも行く機会も、一緒に行くような相手もついぞいなかったけれど。
電車に乗って、二駅目で一度乗り換えて、最寄り駅に到着したらそこからまた走った。どこか野暮ったさを感じて勝手にコンプレックスみたいに思っていた低いヒールもパンツスーツも、今は全然嫌じゃない。腕を絡ませて歩くカップルや恋愛話に夢中な女子高生たちを次々に追い抜いて星野さんの元へ向かった。勢いよく吸い込んだ冷気で肺が痛む。身体は熱いけれど吐く息は雪のように真っ白で、ずっとこんな寒空の下に佇んでいたら凍えてしまいそうだと思った。
ようやくベンチに座る星野さんを見つけたとき、俯いた横顔があまりに綺麗で、わたしはすぐに声をかけられなかった。そっと呼吸を整えてから一歩ずつ近寄る。気付いて、気付かないで。一歩ずつ踏みしめるたびに心が揺れ動く。
「……、……あの」
わたしが恐るおそると声をかけると、星野さんはものすごい勢いで顔を上げた。その表情はひどく驚きに満ちていて、けれどすぐに待ち人ではないことを認識して明らかに落胆していくのがわかった。
「ごめんなさい、お姉ちゃんじゃなくて」
「あ……、いや」
吐き出した言葉は少し皮肉のようになってしまったかもしれない。星野さんは取り繕うように右手で顔を隠した。こんなに虚しい気持ちは生まれて初めてだった。こんな感情、知りたくもなかったけれど。
「……余計なお世話かもしれないけど、きっと、お姉ちゃんは来ないです」
わたしの声に果たして温度はあっただろうか。
今の気温よりも、わたしと星野さんの間に流れる空気の方がよっぽど身体中を突き刺すように冷え切っている気がした。周囲では寄り添って楽しそうに写真を撮るカップルばかりが蔓延っていて、シャッター音がいちいち時を刻むようでわたしの涙腺を刺激する。走り続けて上がっていた体温は既に間違いなく下がっているはずなのに、感情の熱は上がる一方だった。
「……そっか、そう、だよな」
星野さんは両手を額で組むように覆ってひどく重たい溜め息を吐いた。項垂れた頭にそろそろと手を伸ばして、冷えた髪をゆっくりと撫でる。
「李依さん、わざわざ来てくれたんだよな、……ありがとう」
「……元気、出してください」
今のわたしにできるせいいっぱいは、もはやここまでだった。
もしも今、わたしが星野さんに告白をしたとしても、良い返事がもらえないことはわかっている。それに、星野さんがわたしの陰に姉を見ていることも誰よりわかってしまうから、それがいちばん、なによりもつらかった。
流れる涙は真冬の凍える風じゃ乾いてくれそうもない。光り輝くイルミネーションもこんな二人の前じゃなんの意味もなしてくれない。
どうかもう少しだけ、泣いていることが星野さんに気付かれませんように。万が一気付かれても、なんとかごまかして、間違っても、好きだなんて場違いな言葉がこぼれ落ちてしまいませんように。
こんなとき、あの人なら、姉ならどうするだろう。
こんなときになってもそんなことを考えてしまうわたしは、目の前にいる星野さんと一生結ばれることはない。