リトルシューゲイザー



 からんころん、と真っ暗の坂道を降りる下駄の音がやけに響いている。
 大きな花火がいくつかわたしと涼の後ろで上がっていて、一歩先を歩く彼の顔は見えない。メインの花火が終わるより先に会場から少しずつ離れていくのはどちらの足が先だっただろうか。
 待ち合わせ場所で顔を合わせて、いつもは着ないようなラフすぎるTシャツとジーンズ姿のを彼に珍しいけど似合ってる、と告げると、彼が服の裾を軽く引っ張って「あー、先輩に、貰った」と少し照れたように薄く微笑んだのが数分前の出来事のようだった。実際、他の人たちに比べたら会場にいた時間は格段に短かっただろう。涼はスーツであろうと私服であろうと女の子の視線をそこそこに集める上に、浴衣姿のわたしは歩くスピードがかたつむり並みだった。勇気を出して新しく買いなおした浴衣を着付けたそのくせに、歩きにくいことも、久々に下駄を履くことも、涼とはぐれたくないことも、ひとつも言えないで、彼の服の袖を掴むこともできなかったのだ。
 なにか言い訳をするならば、あんな恋しているみたいな顔で先輩に貰った服をわたしに見せるから、バーゲンセール会場のようなこんな場所で触れて彼の服になにかあったら、と思わなかったわけではない。けれども、こんなことは本当にただの言い訳に過ぎなくて、いつもなら絶対にしないであろう凝って結い上げた髪や揺れる簪にちいさいピアスも、全部が全部今日のためで、だからこそ、これ以上露骨な行動なんてできないという自意識が働いてしまったのだ。
 わたしの歩くスピードが徐々に遅くなって、距離がじわりじわりと離れていくのが分かる。心の距離もこんな風に目に見えてしまったら、いや、もうこれがこれが心の距離だったりして。
 考えても幸せにならないことを考えながら坂道を転げ落ちないように、まだ減速したままゆっくりと離れていく背中を見つめる。ここでたとえ転んでもいいから、涼のところまで走っていけたら、ちょっとは変わるのかな、なんて考えた瞬間、くるり、と振り返った涼がわたしの方を見て、ちょっとだけ目を見開いた後に、ものすごい速さでこちらへやってきた。というか、足が長すぎて一歩の歩幅が大きい。

「靴擦れしたの、どっか痛い?」
「大丈夫、でも坂だから転びそうで」
「ごめん、今、考え事してた。こんな離れてると思わなかった」
「いや、わたしも、全然、声とかかけれなくて」

 先程の喧騒の中がまるで嘘みたいに鮮明に涼の声が聞こえる。流れ星みたいだ、と考えたら、あまりにもそれはポエムめいていて、けれどわたしにとって間違っていることはなにひとつもくて思わず言葉を失った。
 まだ続いているらしい花火の音は先ほどよりも弱く、遠くではまだその花火に喜びの声を上げる人の声まで聞こえる様な気さえ覚える。同じ歩幅で、ペースで、でも、わたしの言葉になにかを返すわけでもなく、涼は隣を歩いている。でもこの坂道はいつか終わってしまうし、終わった先は、ふたりがばらばらに帰る道だ。

「花火、見たかったよな」
「……なんで?」
「えっ、いや、見たいでしょ、夏だし、普通」
「でも見たよ」
「違う、あっちで」
「見たじゃん、最初の何発か」
「……なに、マジで言ってんの」

 深刻そうな涼の声も、顔も徐々に崩れていって「別に花火は、人も多いし」とダメ押しのように返すと涼は「なんだよ、ソレ」と眉をめいっぱい下げるようにして微笑んだ。わたしからしたら、一緒に花火を見に行けたこと、そしてちらりとでもあんな人ごみのなかで涼の隣で花火を見られたこと、こうやっていま隣で並んで話していること、涼にしてみたらどうでもいいことかもしれないけれど、たったそれだけでよかった。

「あんま、こういうの、興味ない、とか」
「興味なかったら浴衣まで着ないでしょ」
「……だよな」
「でも、人とかすごくてちょっとびっくりした」
「慣れてないの」
「うん。子供の頃とか抜いたら、初めてに近いかも」
「じゃあなんで、今日は来てくれたわけ」

 涼はいつの間にか足を止めていた。臙脂みたいな蘇芳の色の瞳の奥に、ちいさくわたしが映っていて、わたしは彼の目に足を止められてしまった。射止められたようにまったく動けなくなったまま、彼の背中から、おそらくはエンディングを迎えるであろう花火がゆっくりと上がっていく。
 なんで、なんて。答えたら、それはそのまま、彼に対する気持ちと同じになってしまう。
 涼はただただ真面目な顔で、じっとわたしの顔を見て、そのままわたしの片方の手を掴んだ。王子様のように彼の手の上にわたしの手が乗せられたとき、いつの間にかその手を握り返していた。ただそれだけで、彼が一瞬唇を緩めて、ちいさな息を零す、その呼吸の音は溜息ではなくもっと甘く、ふわふわしたもの。

「全然、掴まないから、俺のこと嫌いかと思って」
「違うよ」
「じゃあ、……いや、待って」
「え?」
「こういうのは、俺が言わなきゃだめなやつ、だよな、うん」

 涼がひとりで納得したような顔でもう一度頷いて、瞳と似た色をした柔らかそうな髪がさらりと揺れる。
 待って。まだ、準備、心の、いやでも、そんなこともない、考え過ぎだ。自惚れだ。だって、まさか、そんな。
 坂道の終わりかけ、涼がわたしの手を握りしめて、ゆっくりと唇が動くのがスローモーションで見えた。少し乾燥した涼の唇が紡ぐ言葉より、動きが先に目に入ってくる。それからワンテンポ遅れて入ってきた言葉は、わたしが想像していたものとは少し違っていて。

「今日、本当に可愛くて、いや、いつも可愛くないとかじゃないけど」
「うん」
「なんか、色々、言おうとか思ってたけど、忘れて」
「うん」
「で、まぁ、でも、もう分かる、よな」
「……?」
「好きだから。付き合ってほしい」

 夜に溶けた彼の声を溶かすような甘い静寂で花火はいつの間にか終わっていることと、帰りを急ぐ人の波が近づいているであろうことにぼんやりと気づく。
 耳の奥で響いている涼の言葉がまだ消えなくて、声を失ったわたしはただひたすらに頷いて、彼の手を握り返すと、それをじいっと見ていた涼がちょっとだけ笑って、わたしの手の甲を撫でた。

「ちゃんと言って」
「……び、っくりした」
「感想じゃなくて」
「あ、ごめん。……わたしも、好きです」
「じゃあ、行こう」
「え?」
「車こっちに泊めてるから。こんな中途半端な夏ありえないだろ、付き合ってるんだから」

 指と指を絡ませるように手を繋ぎなおした涼は、わたしを気遣うように、けれどすこし早いスピードで坂を下りていく。
 わたしは、涼はこれからどこへ行くのだろう。けれど、なにかを決めているらしい光る瞳にその”なにか”を問いかけるほどわたしは無粋ではなく、ただ坂道の先が終わりでないことに、寧ろこの場所が始まりであったことに心の底から感謝した。
 わたしと涼の夜の先がどこにあるのか、真直ぐ前を見つめる彼の瞳も本当は知らない気がして、でも、それでもよかった。
 隣に彼がいて、夏があって、秋が、冬が、春が来て、その季節を、彼の隣で過ごすことが一番の幸せだと、わたしはわかっているのだから。