涼がわたしよりも早くアルコールを飲み干すのを見て、なんとなく時間の流れというものを如実に感じてしまう。
本人にそんな意図があるわけではないのをわかった上で、もう成人しているのか、ととうの昔に過ぎ去ったことに対して今でも新鮮に驚くのだ。わたしが知っているちいさくてかわいい涼は(その頃から背も態度も然程小さくはなかったけれど)もういない。
「次、何飲む」
「……あー、」
「なに、何か怒ってんの」
涼がメニューを見つめながらソフトドリンクのページをわたしに見せてきたり、その前にそもそも空になりそうなグラスに気を配る感じ。元々大学時代から少なからず酒を飲む席に未成年で同席していたこともあるとわかってはいながらも、なんとなく曖昧な境界線だと思っていた十代と二十歳の違いをはっきりと見たような気がした。だから、「あー」という声が出てしまったわけで、たぶんその「あー」は、涼がわたしの知らない涼に変わっていくことに対してで。
わたしは、涼をどうしたいのだろうか、というか、涼のことをどう思っているのだろうか。アルコールで頭が回らないふりをして、テーブルに肘をついて顔を覆ったままメニューを見ることなく「お水、あとウーロン頼んでもらっていい」と言葉にした。涼が「珍しいな」と小さく呟いた後で、顔を覆って見ないようにしても丁寧かつ慣れた風に店員さんにチェイサーとお茶を頼んでいるのが聞こえる。しっかり自分の分のアルコールも注文しているし、というか、涼はまだ飲めるのか、すっかり酒豪だなあ、なんて思いながら、耳だけがピンと立っている動物のようにすべてのものものに耳を澄ませてしまう。
どうしたいのだろうか、という考えが自分の心を埋めていることにも、いま、くるくると回る頭の中でなにか座りが悪いような感じがした。なんとなく、わたしが涼になにかをしなきゃいけないだとか、涼が言う簡単なわがままに振り回されてあげているような、そんな気分でずっといたけれど、ずっと前から涼はそんなわたしの感覚に合わせてくれていたのだろう。本当はきっと、もっとずっとすべてをちゃんとまっとうにこなすことが出来る一人の男の子なのに。
素早くテーブルに置かれた三つのグラスを分配する彼の、短く切り揃えられた三日月のような爪が視界に入った。顔を上げることができないわたしはどうしてか、その爪を、水の入ったグラスを一番にわたしに差し出す涼を、どうしようもなくぶち壊したくなった。もう二度と会えなくても構わない、なんて、きっと本当にしてしまったならば一生後悔するのはわかりきっているはずなのに、こんな、たった一度のやけっぱちで。
「ねえ涼、帰りたくない」
「……は、」
「帰りたくない」
「それは、あのー……帰るのがめんどくさいって意味、とは違う、あの」
「なにテンパってんの」
「いや、え、びっくり、して」
覆っていた顔を上げると、彼の切ったばかりの髪が揺れて、小洒落た高そうな腕時計がきらりと蛍光灯の光に反射して光っている。腕時計よりも綺麗に輝く瞳が困惑の色を浮かべているのをわたしは恍惚と後悔の入り混じった瞳で見つめていた。どうしてなにかを壊したとき、心はスッとするのだろう、手の滑って割れたグラスや、思い切り叩きつけるクッション。偶然でも故意でもなにかに衝動をぶつけた瞬間の快感と、終わった瞬間それ以上に襲ってくる恐ろしいほどの後悔。全て知っているはずなのに、わたしはまた、なにかを、涼との関係すらも、壊そうとしている。だって、いつか壊れるなんて考えたくない、だったら早く壊して、なかったことにして、安心したい。
「とりあえず、飲めば」
「酔ってないし」
「……まあ、そうだよな」
「ムカつく、顔見てわかるんだ」
「分かるって。俺、李依しか見てないから」
「そりゃふたりきりだもんね」
「そういう意味じゃなくて」
涼の声がワントーン低くなって、一瞬でわたしは心細さを誤魔化すように水に手を伸ばした。ただ冷たいだけの味のしない水がするすると喉を流れて身体に沁みていくのを感じると、自分の身体にはきちんとアルコールも沁みていたのだと理解できる。だからこんなことをしてしまったのだという、今だけの気休めの、都合のいい言い訳。
どう答えたらいいだろう、とピンクベージュに塗り直した自分の爪の光沢を眺めながらテーブルの木目を人差し指でなぞると、耳をつんざくような大音量で携帯の音が鳴った。え、え、と顔を上げると「ああ」と短く声を上げた涼がひとり納得したように携帯の画面を操作して音を切った。
「出なくていいの」
「なんで?これアラーム」
「なんか用事?」
「いや、この時間までには李依のこと送ろうと思って勝手に設定してた」
「なにそれ」
確かに時計の針は終電がなくなって少し経過した時間を指しているし、涼がわたしの家の近くまでついて来てくれているとはいえタクシーで帰ることだけは決定事項になっていた。けれどそれは今までもだいたいそうだったことで、通常ならばそろそろ、とわたしが先に切り出してタクシーを呼んでいたはずなのに、今日ばかりはなぜなのだろうか。そんなわたしの疑問をすべて吹き飛ばすように、携帯のカバーをぱちんと止めて慣れた手つきでテーブルに滑らせたあと、こちらを見つめる。
潤んだ浅蘇芳色の瞳が、薄い唇が、なにかの、いや、本当は知っているタイミングを計っているのだ。
「もういらないもんな?」
「まぁ、適当に帰るから、そういうのいいよ」
「は?帰んの」
「……かえ、」
「さっき帰りたくないって言っただろ。そんなの聞いて、俺が李依のこと帰すと思ってんの?」
涼の声が、ずっとずっと低く、ゆっくり響く。テーブルに置かれていた携帯のカバーをパチンと開いた涼が少しだけ無言で指先を滑らせる。革でできたシンプルな黒いカバーが鈍く光に反射しているのを見ている間に、携帯はまた役割を終えたらしい。今度は携帯のカバーを閉じないまますぐ取れる場所に置いた涼が「直ぐ来るから、タクシー」と言った。え、とも、へ、ともつかない声にならないなにかを口の形だけで表したわたしを放ったまま、勝手に涼は席を立つ。待っての声も忘れて、ただ彼の剥き出しの携帯の画面の真っ黒を見つめていた。真っ黒の画面が点灯するタイミングで戻ってきた涼がなぜか少し驚いた顔で携帯に触れる。
「大丈夫?」
「今もうタクシー来てる」
「え?」
「会計、終わってるから」
「ちょ、ちょっと」
「二軒目行くのと、俺の家、どっちがいい?」
わたしの鞄と自分の鞄を片方の肩に、反対の空っぽの手でわたしの手を掴んだ涼は容赦なく「ごちそうさまでした」ときちんと会釈と挨拶をして店を出ていく。子供のようにわたしも「ごちそうさまでした」と同じ言葉を涼になのか店員さんになのかわからないままに紡いでいると、そこはもう夜の街で。
「李依が決められないんだったら、俺が決めるから」
涼が呼んだタクシーが早く入れと、運転手さん、そして車ごとわたしたちを急いているのがわかる。楽しげにおもちゃを見つけた子供みたいな声で涼は笑うけれど、わたしも涼もおもちゃで遊ぶ子供でもなければ人で遊ぶ子供でもない。夜の街の明かりに照らされた涼が運転手に告げる行き先に乗っかればいい、単純にわかっていた。きっと涼もそのことを知っている。生ぬるい風が頬を撫でて、彼がわたしの手を引いていく。
タクシーのドアがゆっくりと開いて、彼が慣れたしぐさで車に乗り込んで告げる行き先を、まるで魔法の言葉のように聞きながらわたしはただ後部座席の背もたれに身体を預けて目を閉じる。したたかにも酔っていない、眠くもない、けれど、眠くなっているふりをしているわたしを見逃してくれる涼の大人びた優しさに、勝手に甘えながら。